ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1944年6月、イタリア王国の首都ローマが連合国軍によって攻略された。


第二次世界大戦中のイタリア王国の首都ローマ

第一次世界大戦が終わってまだ間もない西暦1922年、第二次世界大戦の砲声はまだ聞こえてはいなかった。でも、イタリアの首都ローマには軍靴の音が鳴り響いたらしい。ムッソリーニとファシスト党の党員たちによるローマ進軍が行われたんだ。

当時のイタリア軍のバドリオ参謀総長はイタリア軍の武力によってムッソリーニのローマ進軍を阻止することを提言したそうな。でも、イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世は、イタリア軍の出動を抑え、ムッソリーニによる政権獲得、そして独裁を容認したらしい。

政権を握ったムッソリーニは西暦1926年にはローマ教皇庁と交渉を開始し、西暦1929年にはラテラノ条約を結んでいる。西暦1870年のイタリア王国によるローマ併合から続いていた教皇庁とイタリアとの対立がここに終わったわけだ。かくしてムッソリーニの権威が更に高まっていった。

ラテラノ条約の締結を記念して、ムッソリーニ政権がヴァティカンに敷いたのが「和解の道(コンチリアツィオーネ通り)」だった。ヴァティカンのサンタンジェロ城からサン・ピエトロ大聖堂に向かう広い立派な道だね。(下の画像は高台から眺めたローマの様子なんだけど、画像の右手に見えているドームがサン・ピエトロ大聖堂だね。)

イタリアの首都ローマを高台のレストランのテラスから眺めた

ところが、ファシスト党のムッソリーニがイタリア王国を導いていったのは、ヒットラーのドイツとの同盟、そして第二次世界大戦だった。でも、準備不足の状態で戦争に突入したイタリアは不利な状況に立つことになったんだ。やがて首都ローマまでも連合国軍による爆撃を受けることになる。

イタリア王国の臨時の首都が置かれたサレルノ

首都ローマが爆撃を受けたのは西暦1943年7月のことだった。その数日後、独裁者ムッソリーニが解任された。代わって政権を担ったのはバドリオ元帥だった。ムッソリーニによる西暦1922年のローマ進軍の際、イタリア軍によって阻止することを国王に進言した参謀総長だね。しかも、彼は第二次世界大戦へのイタリアの参戦にも反対していたそうな。

新政権は戦争を続けつつも水面下で連合国軍と和平交渉を始めたらしい。ポルトガル首都リスボンスペイン首都マドリッドにあるイギリス大使館を窓口として交渉したそうな。でも、戦況は急速に変化していったんだ。ムッソリーニ解任の翌月の西暦1943年8月には連合国軍がシシリア島に上陸。そのまた翌月には連合国軍によるイタリア本土上陸が行われ、サレルノパエストゥムに部隊が上陸している。

他方、連合国軍は西暦1943年9月にはイタリア政府による無条件降伏を宣言し、国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世とバドリオ元帥はイタリア南部のブリンディシに移っている。しかし、解任され監禁されていたかつての独裁者ムッソリーニは同月にドイツ軍によって救出され、イタリア北部に傀儡政権(サロ共和国)を樹立していた。

イタリア南部カンパーニャ地方の街サレルノの風景

結局、イタリア南部に拠るバドリオ元帥を中心とする王国政府は北上する連合国軍と共に戦い、対する北部によるムッソリーニの傀儡政権はドイツ軍と共に戦うことになったわけだ。ちなみに、イタリア王国のバドリオ政権は西暦1944年2月には臨時の首都をサレルノ(上の画像はサレルノの街の風景)に移している。

ちなみに、西暦1944年3月にはポンペイを壊滅させたヴェスヴィオ火山が噴火している。臨時首都となったサレルノの人々や連合国軍の兵士たちは肝を冷やしただろうね。

北上する連合国軍によるナポリ、そしてローマ攻略

イタリア南部のサレルノなどに上陸した連合国軍部隊は北上し、西暦1943年10月にはナポリを攻略している。ちなみに、イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世はナポリ(下の画像はナポリの王宮)で生まれたそうな。(全くの余談ながら、ピザの本場ナポリで生まれたピッツァ・マルゲリータは、国王の母マルゲリータ王妃にちなんで名づけられたとか。)

イタリア南部カンパーニャ地方の街ナポリの王宮

連合国軍は更に北上を続けた。イタリア王国の首都ローマを攻略したのは、西暦1944年6月のことだった。その時点で首相バドリオ元帥は政治から身を退いたらしい。前年9月に国王と共にローマから脱出したことで、人々から反発されていたんだそうな。

連合国軍がローマを攻略した西暦1944年6月、その連合国軍はサン・マリノ共和国に空爆を加えている。他方で、同年9月にはドイツ軍がサン・マリノ共和国を占領している。すぐに連合国軍とのサン・マリノの戦いで敗れたけどね。しかし、小さいながらも独立国として中立を保っていたサン・マリノ共和国としてはとんでもない迷惑な話だよね。

ついでながら、連合国軍はトスカナの街シエナをも空爆している。今では世界遺産にもなっているシエナ歴史地区は中世の面影を色濃く残しているんだけど、空爆にもかかわらずシエナの街並みが生き残ったことに感謝したいよね。

他方で北に向かって後退するドイツ軍は、フィレンツェを流れるアルノ川にかかる全ての橋を破壊しようとしたらしい。でも、西暦1345年にかけられたヴェッキオ橋については、その歴史的・文化的な価値の故に破壊すべきではないと説得され、ドイツ軍の将軍は爆破を思いとどまったんだそうな。おかげで私たちは中世の面影を残すヴェッキオ橋を歩いてピッティ宮殿まで行くことができるわけだ。

終戦とイタリアにおける王政廃止

ローマ攻略の後、イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世は政治の実権をウンベルト王太子に譲ったらしい。摂政となったウンベルト王太子は、連合国軍との交渉やドイツ軍との戦いを続けるイタリア軍の支援に取り組んだらしい。

他方で連合国軍はローマ攻略の2ヵ月後、西暦1944年8月にはトスカナ地方の古都フィレンツェを攻略している。(下の画像はボボリ庭園のカフェから遠望したフィレンツェの様子。)

イタリアのトスカナ地方の古都フィレンツェの風景

連合国軍は更に北上を続ける。他方で西暦1944年8月にはフランスの首都パリが解放され、フランス南部プロヴァンス地方でも解放の戦いが続いていた。西暦1945年4月にはパルチザンに捕えられたムッソリーニが処刑され、同月末にはドイツの首都ベルリンにソ連軍戦車が突入している。

イタリアにおいてはパルチザンの活動も活発になっていた。西暦1944年11月にはポルタ・ラメでパルチザンとドイツ軍との激戦もあった。その戦いではパルチザンが敗れてしまったけれども。しかし、西暦1945年4月にはパルチザンがボローニャに入っている。古代からのイタリア北部の交通の要衝ボローニャを失ったドイツ軍の防衛線は崩壊。そして5月、イタリアにおける戦いも終わった。

でも、ファシストに協力したとされるイタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世にとって厳しい日々が続いた。西暦1946年5月には退位し、王太子が新国王ウンベルト2世として即位している。でも、その翌月に行われた国民投票の結果、イタリアは王政を廃止したんだ。

その結果、西暦1861年に統一イタリア王国を成立させた王家は国外に追放されることとなった。即位したばかりのイタリア国王ウンベルト2世はポルトガルに亡命。退位して間もない先王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世はエジプトに亡命した。24年前にムッソリーニのローマ進軍と政権掌握を阻止しなかったことを後悔しつつイタリアを離れて行ったんだろうか。

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