ローマのサン・ピエトロ大聖堂の眺めが素晴らしい和解の道イタリアの首都ローマを訪れるならば、少なくとも一度はヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂へ行きたいよね。更に、せっかくサン・ピエトロ大聖堂へ行くならば、ぜひともお勧めしたいのが、サンタンジェロ城から歩いて行くこと。その結果、下の画像の眺めを楽しむことが出来るからね。
サン・ピエトロ大聖堂の正面に向かう上の画像の道をヴァティカンを目指す中世の巡礼たちも歩いたんだろうな ・・・ と思ったんだけど、それがどうも違うらしい。西暦1929年にローマ教皇庁とイタリア王国との間にラテラノ条約が結ばれてヴァティカン市国が成立したんだけど、それを記念して敷かれたのが上の画像の道(「コンチリアツィオーネ通り」あるいは「和解の道」)なんだそうな。
ローマ教皇庁のあるヴァティカンには聖ペテロのお墓古代ローマ帝国の皇帝ネロによるキリスト教徒迫害の際に殉教したとされる聖ペテロのお墓は、このヴァティカンにあったとか。やがて古代ローマ帝国におけるキリスト教信仰を認めた皇帝コンスタンティヌスは、聖ペテロのお墓の上に聖堂を寄進したらしい。聖ペテロは初代ローマ教皇とも言われるけれども、彼のお墓のあるヴァティカンはローマ教皇庁の本拠となったわけだ。(下の画像はサン・ピエトロ大聖堂の中で見た聖ペテロ像。)
ところが、19世紀になり、小国に分裂していたイタリアでは統一運動が盛り上がってきた。フランス二月革命の熱がイタリアにまで及んだ西暦1848年には民衆の暴動を怖れた教皇がローマを脱出し、共和国が成立する事態にまで至っている。
統一イタリア王国によるローマ併合とヴァティカンの囚人ところが、ニース(今のフランス南部コート・ダジュールの海辺の街)を割譲する代わりにフランスの協力を得たサルディニア王家が、ガリバルディなどの活躍もあり、西暦1861年には統一イタリア王国を成立させたんだ。ローマ教皇庁の支配下にあった教皇領の多くは、そのイタリア王国によって占領されてしまった。それでもローマとその周辺地域は教皇庁の支配下に残されていた。ローマに駐留していたフランス軍部隊の存在もあってね。ところが、西暦1870年に起こった普仏戦争のために、ローマに駐留していたフランス軍は撤退してしまったらしい。 その機を逃さず、イタリア王国はローマを占領・併合したわけだ。ちなみに、下の画像は古代ローマ帝国の皇帝アウレリアヌスがローマに残したアウレリアヌスの城壁の様子なんだけど、イタリア王国のローマ占領の際には、ここで戦闘があったんだそうな。
西暦1870年に永遠の都ローマを併合し、統一を完成させたイタリア王国は、ローマ教皇庁との講和を協議しようとした。でも、軍事力でローマを奪われた当時の教皇ピオ9世はイタリア王国との一切の協議に応じず、「ヴァティカンの囚人」と自称し続けたらしい。そんなローマ教皇庁のかたくなな姿勢は数十年間も続くことになった。
ラテラノ条約の締結とヴァティカン市国の成立西暦1919年、イタリア北部の中心都市ミラノのドゥオモ(大聖堂)の近くの広場で黒シャツ隊なる民兵組織が結成された。西暦1922年には黒シャツ隊はローマ進軍を行い、その指導者であるムッソリーニはイタリア王国の政権を掌握する。そして西暦1926年、ムッソリーニはローマ教皇庁と交渉を始めた。やがて両者の間に協議が成立し、西暦1929年には教皇庁とイタリア王国との間にラテラノ条約が結ばれたわけだ。 このラテラノ条約においては、以下の事項が合意されたらしい。
このラテラノ条約の締結によって、ローマ教皇庁とイタリア王国との間に長く続いた対立が解消されたわけだ。サン・ピエトロ大聖堂に向かって敷かれた新しい道が「和解の道」(あるいは「コンチリアツィオーネ通り」)と名づけられたのはそんな事情があったからなんだね。
そんな経緯で成立したヴァティカン市国は世界で最も小さな国なんだそうな。余談なんだけど、世界で2番目に小さな国はフランス南部ニースの近くにあるモナコ公国。ついでにヨーロッパで3番目に小さな独立国(世界では5番目に小さな国)は、イタリアの山の上にあるサン・マリノ共和国らしい。
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