ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1939年、首都マドリッドが陥落し、独裁者フランコ総統がスペイン内戦に勝利を得た。


スペイン革命による共和制の成立と国王の亡命

西暦1931年、スペインにおける革命の結果、第二共和制が樹立され、国王アルフォンソ13世がイタリアの首都ローマに亡命した。(下の画像はスペインの首都マドリッドにある王宮とその前に立つフェリペ4世騎馬像。)

スペインの首都マドリッドの王宮とその前に立つフェリペ4世騎馬像

この革命は、19世紀初頭の皇帝ナポレオンに対するスペイン独立戦争から続いた混乱の末の結果だったんだろうね。でも、これでスペインが安定したわけじゃない。むしろ、更なる混乱の始まりだったみたい。

反乱軍の指導者フランシスコ・フランコ将軍とスペイン内戦

スペイン王を亡命させた革命の後も、国内での左派と右派の政権争いが続いていた。でも、西暦1936年の総選挙により、左派を中心とする人民戦線内閣が成立した。ところが、右派を中心とする勢力が各地で反乱を起こし、スペイン内戦が始まってしまったんだ。

その頃、かつてスペイン陸軍の参謀総長にもなったことのあるフランコ将軍は、カナリア諸島にいた。左派政権によって危険人物視され、国内政局から遠ざけられていたらしい。島流しの左遷をくらっていたわけだ。

モロッコの風景

そんな状況でスペイン内戦が起こったんだけど、当時の植民地だったモロッコに駐屯していたスペイン軍部隊も本土の動きに呼応して反乱を起こした。カナリア諸島からモロッコに飛んだフランコ将軍は、反乱部隊と共にスペイン南部アンダルシア地方に侵攻したんだ。(上の画像はモロッコの風景。知人に戴いた画像なんだけどね。)

スペイン内戦の勝利を得た独裁者フランコ総統

軍人の子供として生まれたフランコ将軍は、15歳の時にスペインの古都トレド(下の画像)にある陸軍士官学校に入学している。そんな古都トレドは、スペイン内戦の初期に戦いの舞台になっていた。

スペインの古都トレドの風景

上の画像の右手には、4つの黒い尖塔を持つ建物が見えているよね。これが古都トレドのアルカサル(城館)なんだけど、この建物に反乱軍が籠城し、その周囲を政府軍が包囲していたらしい。そんな古都トレドを攻略し、アルカサルに籠城していた反乱軍部隊を救い出したのが、モロッコからスペイン本土に侵攻したフランコ将軍だった。

そんなスペインの古都トレドでの戦勝などで名声を勝ち取ったフランコ将軍は、やがて反乱軍全体の総司令官となった。人民戦線政府はソ連や国際旅団の支援を得ていたんだけど、反乱軍はドイツ・イタリアやポルトガルなどの支援を得たらしい。そんな中で西暦1937年にはスペイン北部のゲルニカがドイツの飛行機によって爆撃された。その惨事を描いたのが、画家ピカソの絵「ゲルニカ」だった。

他方の人民戦線政府軍の内部では、路線の対立が激化していた。その結果、政府軍側の拠点だったバルセロナでは政府軍部隊同士の内紛による戦闘まであったらしい。西暦1939年に入ると、そんなバルセロナが反乱軍によって攻略されてしまった。

その年の春、いくども反乱軍の攻撃を耐え抜いてきたスペインの首都マドリッドが、ついに陥落した。人民戦線政府はついに崩壊した。反乱軍の司令官にして首相ともなっていた独裁者フランシスコ・フランコは、スペイン総統として国家元首にもなったわけだ。

フランコ総統の独裁においては、スペイン内戦で人民戦線政府の側に立って戦ったバルセロナを中心とするカタルーニャ地方やヴァレンシアの自治は厳しく抑圧されていた。カタルーニャ語やヴァレンシア語も禁止されていた。ヴァレンシアの火祭りの為に作られる多くの人形についても、政治を風刺するものを作ることはできなかったらしい。

ところで、そんなカタルーニャ地方では現在に至るも独立の動きが続いている。西暦2012年11月に行われたカタルーニャ自治州の州議会議員選挙では、独立推進派が過半数を獲得している。とはいえ、実際に独立するためにはスペインの憲法改正が必要となることもあり、そうそう簡単にはいかないみたいだけどね。

カタルーニャ地方が見守っていたのが、イギリス北部スコットランドの独立の是非を問う住民投票だった。西暦2014年に実施された住民投票の結果、スコットランドの独立は見送られてしまった。それでもスペインのカタルーニャ地方の人々は今も独立の動きを続けている。

スペインの独裁者フランシスコ・フランコ総統のその後

スペイン内戦において独裁者フランコ総統が最終的な勝利を得た西暦1939年の秋、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まった。ドイツやイタリアの支援を得て内戦に勝ったフランコ総統は、枢軸国側に近い立場にいながらも、参戦はしなかった。しかも、連合国側が優位になるにつれて、スペインの軸足を中立に移していったんだ。おかげで、内戦に疲弊していたスペインが第二次世界大戦の惨禍に巻き込まれずにすんだわけだ。

でも、ドイツ・イタリアに近い立場にいたフランコ総統を国際社会は信用しなかった。戦後しばらくの間は国連に加盟することも許されなかった。スペインが国連に加盟することが出来たのは、西暦1955年のことだった。

また、スペインを代表する画家ピカソは、独裁者フランコ総統を毛嫌いしていた。彼がスペイン内戦の惨禍を描いた代表作「ゲルニカ」はニューヨーク近代美術館に預けられていたんだけど、スペインに自由が回復するまで「ゲルニカ」をスペインに返すことは許さなかったらしい。

旧スペイン・ペセタのコインに描かれた独裁者フランコ総統の横顔

そんなスペインの独裁者フランコ総統が亡くなったのは、西暦1975年のことだった。上の画像は、ヨーロッパの新通貨ユーロの導入前の旧スペイン・ペセタのコインに描かれているフランコ総統の横顔なんだ。今ではフランコ総統の姿もスペイン・ペセタも消えてしまったけどね。

その年、スペインでは王政復古となり、西暦1931年の革命の際にローマに亡命した国王アルフォンソ13世の孫のフアン・カルロス1世がスペイン国王として即位している。そんなスペインにピカソの絵「ゲルニカ」が返還されたのは西暦1981年のことだった。

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