イタリアの首都ローマにあるヴァティカンの国境線世界で最も小さな国といえば、イタリアの首都ローマにあるヴァティカン市国だよね。(ついでながら、2番目に小さな国は、フランス南部コートダジュールの街ニースに近いモナコ公国だね。)そして下の画像は、そのヴァティカン市国の国境線の柵なんだ。ヴァティカン美術館・博物館やサン・ピエトロ大聖堂に行く時には通過するかもしれないけど、それでも気がつかないほどの存在だよね。
でもね、かつてイタリアがいくつもの国(教皇領、両シシリア王国、トスカナ公国、サルディニア王国、ヴェネツィアなど)に分裂していた頃、そして統一イタリア王国が成立して間もない頃には、このヴァティカンの国境がとっても大きな存在だったことがある。このローマ教皇の小さな国をめぐって、兵士たちが戦いをしたこともあったんだ。
イタリア統一の英雄ガリバルディによるローマ攻撃の失敗西暦1861年に統一イタリア王国が成立した後、西暦1865年には王国の首都がフィレンツェに移され、西暦1866年には普墺戦争においてプロシアと同盟して戦ったイタリアはオーストリアからヴェネツィアを奪うことが出来た。そしてイタリア統一に残された最後の難関が、教皇庁のあるローマの併合となったわけだ。西暦1867年、イタリア統一の英雄ジュゼッペ・ガリバルディが義勇兵部隊と共にローマを目指して動き始めた。ところがフランス軍部隊の支援を得たローマ教皇軍にガリバルディ軍が敗れ、ローマ占領は不発に終わってしまった。(ガリバルディにとっては、西暦1849年のローマ共和国崩壊と西暦1862年のローマ占領失敗に続く三度目のローマにおける挫折だった。)
しかも、ローマ教皇軍を支援したフランス軍部隊がローマにとどまることとなり、イタリア王国によるローマ併合には状況は不利になってしまったんだ。(ちなみに、上の画像はローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂とサンタンジェロ城とを結ぶレオニーネの城壁。その中にはいざというときにローマ教皇が脱出する為の通路もある。)
イタリア王国によるローマ占領と併合ガリバルディによるローマ占領の失敗の後、事態は停滞していた。ところが、西暦1870年に状況が大きく変化したんだ。その年の7月、フランスとプロシアとの間の普仏戦争が勃発。翌月にはフランス皇帝ナポレオン3世は教皇の為にローマ防衛を担っていたフランス軍部隊をプロシアとの戦いの為に引き揚げている。そして9月、イタリア王国軍がローマを取り巻くアウレリアヌスの城壁(下の画像)に迫った。(この城壁は、古代ローマ帝国の皇帝アウレリアヌスがローマの防衛の為に築いたものだった。)
やがてイタリア王国軍とローマ教皇軍との間で戦闘が始まった。3時間後、イタリア王国軍がローマ市内に突入した。双方の戦死者は数十名だったらしい。
イタリア統一のその後そんなこんなで多くのドラマを生み出したイタリア統一なんだけど、これで終わったわけじゃないんだ。ローマ併合の後にも、統一イタリア王国の外に取り残されたイタリア人の土地があった。その併合を目指した動きも過去にはあったみたい。例えばガリバルディの故郷のニース、統一の時期にはイギリス領となっていたマルタなど。でも、最大の問題はローマ教皇庁との関係だった。ローマ併合の後、イタリア政府とローマ教皇庁との関係は断絶状態が続いたらしい。(下の画像はローマの高台から眺めたヴァティカン。画像の右奥にサン・ピエトロ大聖堂のドームが見えている。)
両者の和解が成立したのは、ムッソリーニによる西暦1929年のラテラノ条約の締結の時だった。その条約によって、世界で最も小さな国ヴァティカン市国が独立した国家として成立したんだ。
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