民衆の暴動の激化を怖れてローマを脱出した教皇ピオ9世イタリアの首都ローマといえば、カトリックの頂点に立つ教皇のお膝元だよね。(下の画像はカトリックの総本山ともいうべきローマのサン・ピエトロ大聖堂や教皇宮殿を遠望した様子。)
でも、ローマの民衆が常に教皇を支持していたかといえば、そうでもないみたい。例えばカノッサの屈辱のリベンジに燃える皇帝ハインリヒ4世はローマを攻め、教皇グレゴリウス7世はサンタンジェロ城に籠城したんだ。その教皇を救い出したのがノルマン人ロベール・ギスカールだった。
イタリア統一運動とローマ共和国西暦476年の西ローマ帝国崩壊以後、イタリアはいくつもの小国に分裂していた。19世紀のイタリアもナポリを中心とする両シシリア王国、ローマを中心とする教皇領、トリノを中心とするサルディニア王国、北東部のヴェネツィア共和国などに分裂していた。加えてイタリア北部はハプスブルク家のオーストリアの実質的な支配下にあったらしい。かつてのミラノ公国はハプスブルク家の支配下にあった。フィレンツェを中心とするトスカナ大公国も、メディチ家の断絶後のトスカナ大公位はハプスブルク家によって継承されていたんだ。 そんな状況にあったイタリアでも、19世紀には統一運動が盛り上がっていった。そのイタリア統一運動の最大の障害がオーストリアの存在だとされていたんだ。ところが、イタリアに世俗的な統一国家の誕生を望まないローマ教皇ピオ9世は、オーストリアを支持していた。 そこに火をつけたのがフランスの二月革命だった。ローマの民衆は暴動を起こした。更に教皇庁の行政組織の高官が暗殺された。教皇ピオ9世はそんな状況のローマから脱出したわけだ。そんなわけで混乱に陥ったローマで共和国が樹立されたのは、教皇の脱出から3ヵ月後の西暦1849年2月のことだった。 ところが、周囲の諸国はイタリア統一を望んではいなかった。その出発点ともなり得るローマ共和国の樹立も歓迎されたわけじゃなかった。教皇のローマを回復する為にフランス大統領ルイ・ナポレオン・ボナパルト(後のフランス皇帝ナポレオン3世)が大軍を送り込んできた。オーストリアやスペインも軍を派遣してきた。
対するローマ共和国においては、やがてイタリア統一の英雄となるガリバルディが軍を組織した。イタリアに限らず、各地から義勇兵がやってきた。ところが、大軍の前に多勢に無勢の共和国軍の抵抗は粉砕され、共和国成立から半年も経たないうちにローマはフランス軍によって占領されてしまった。生き残りの兵を率いたガリバルディは、小さな独立国サン・マリノに逃れたらしい。(上の画像はサン・マリノで見たガリバルディの胸像。)
ローマに復帰した教皇ピオ9世占領したフランス軍によって秩序が回復したローマに教皇ピオ9世が復帰したのは西暦1850年のことだった。以後の教皇ピオ9世は極めて保守的な姿勢を貫いている。例えば、西暦1864年に発表した「誤謬表」においては、共産主義や社会主義のみならず、離婚・信教の自由・合理主義・自由主義なども誤りであると断定したらしい。ところが、このローマ教皇ピオ9世は妙に日本と縁が深いんだそうな。例えば、西暦1597年(慶長元年)に長崎で処刑された26人(ヨーロッパから来ていた司祭や日本人キリスト教徒などの殉教者)を日本二十六聖人として西暦1862年(文久2年)に列聖している。
その3年後の西暦1865年(元治2年)には、長崎においてフランス人宣教師に対して隠れキリシタンがキリスト教の信仰を告白したんだけど、ローマ教皇ピオ9世はその「キリスト教信徒発見」を大変に喜んだらしい。(上の画像は長崎の大浦天主堂で見た「キリスト教信徒発見」を描いたレリーフ。)
イタリア王国の成立とヴァティカンの囚人となったローマ教皇そんなローマ教皇ピオ9世だったけれども、時代の流れを逆転させることはできなかった。ローマ共和国の際には敗れ去ったガリバルディなどの活躍もあり、西暦1861年には統一イタリア王国が成立している。(その為にガリバルディの生まれ故郷のニースがフランスに譲渡され、彼は怒り狂ったらしいけど ・・・ 。)
そして西暦1870年、とうとうイタリア王国がローマを占領し併合したんだ。普仏戦争においてフランスが敗れた機に乗じたわけだね。もちろん、教皇ピオ9世はローマ併合を認めはしない。この時から教皇は「ヴァティカンの囚人」と称したわけだ。
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