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西暦 1847年、スイスで進歩派プロテスタントと保守派カトリックとの内戦が勃発した。
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フランス七月革命(西暦1830年)のスイスへの影響
西暦1830年のフランス七月革命(ブルボン家の復古王政が倒された)は、アルプスの国スイスにも大きな影響を及ぼしたんだ。例えば、同じ年にチューリヒでは代議制民主主義を取り入れた新しい憲法が制定されている。(下の画像はチューリヒの風景。)
他方で、民主化による混乱も生じている。例えば、民主化に対する議論がまとまらなかったバーゼルは、西暦1833年に二つのカントンに分裂したんだ。(下の画像は、ライン川水運の起点に当たるバーゼルの風景。)
保守派カトリック陣営と 進歩派プロテスタント陣営との対立
進歩的な動きに対して、保守派が黙っていたわけじゃなかった。特にイタリアの首都ローマにある教皇庁の影響下にあるカトリック系の保守勢力は民主化の動きに強く反発していたらしい。
例えば伝統的にカトリック色の強いルツェルンにおいては、西暦1841年にカトリック保守派が政権を奪回している。
ルツェルンで政権を獲得したカトリック保守派は、一般市民の中等教育をもイエズス会に委ねようとした。(右の画像は、ルツェルンで16世紀に建てられたイエズス会の教会の内部。)
ところが、そんなカトリック保守派の動きに対して、スイス国内の進歩派プロテスタント勢力が反発を示したんだ。
例えば、ベルンやアールガウなどの急進派プロテスタントは義勇軍を組織し、カトリック保守派の手中に入ったルツェルンを攻撃したこともある。(その際には攻撃は失敗しているが。)
スイスにおける保護同盟(あるいは分離同盟)
そんなプロテスタント進歩派の動きに対し、ルツェルンなどカトリック保守派に属するカントンは、西暦1845年に保護同盟(あるいは分離同盟)を結成した。
対するプロテスタント進歩派のカントンは、西暦1846年のスイス盟約者団会議(スイス連邦会議)において、保護同盟(分離同盟)の解散を要求しようとしたが、この時には多数派工作に失敗している。
プロテスタント進歩派による巻き返しとスイス内戦
しかし、更に多数派工作を行って巻き返しに出たプロテスタント進歩派は、西暦1847年のスイス盟約者団会議において、保護同盟(分離同盟)の解散とイエズス会修道士の追放などを決議させることに成功。
しかし、カトリック勢力は保護同盟の解散を拒否。対するプロテスタント進歩派勢力は、アンリ・デュナン将軍を連邦軍の司令官に任命。そして両派は内戦に突入したんだ。
プロテスタント進歩派のアンリ・デュナン将軍は、保護同盟に属するカトリック保守派のカントンを次々と制圧し、スイスの内戦は26日間で終わった。内戦期間中の戦死者は約130名、負傷者は約400名ほどだったらしい。
スイス新憲法制定
内戦を終結させたスイスは、明けて西暦1848年に新しい憲法を制定し、22のカントン(その後、ジュラが加わり、現在は 23のカントン)によって構成されるスイス連邦が成立した。
新しい憲法において、スイスにおける主権は各々のカントンに帰属し、その上に連邦が構成されることが明記された。また、連邦軍の組織も定められている。
他方で、スイスの伝統でもあった傭兵の派遣は、新憲法によって明確に禁止されている。
加えて、新しいスイス憲法においては、ドイツ語、フランス語、イタリア語が国語であることが定められている。(西暦1938年には中世ラテン語の方言から発展したレト・ロマンス語も国語のひとつに加えられた。)
平和の砦のようなイメージのあるスイスなんだけど、その平和は流血と犠牲の上に成り立っているものなんだよね。
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