アレクサンドル・デュマ・ペールの小説「三銃士」フランスの若者ダルタニャンが活躍する物語「三銃士」は多くの人が知っているよね。日本でも翻訳は色々と出版されているし、つい最近も NHK で人形劇として放送されていたからね。この「三銃士」なんだけど、そもそもは19世紀のフランスの作家アレクサンドル・デュマ・ペールによる小説なんだ。西暦1844年にフランスの新聞で連載されたものだった。 その後、この小説に基づく物語が何度も映画化されているね。ちなみに下の画像はフランスのリヨン近くにある中世の街ペルージュが朝もやに包まれている風景なんだけど、この街で「三銃士」の撮影が行われたことが何度もあるんだそうな。
でも、実は小説「三銃士」は、正しくは「ダルタニャン物語」の第一部なんだそうな。第一部「三銃士」、第二部「二十年後」、第三部「ブラジュロンヌ子爵」と続いて「ダルタニャン物語」は完結する。その第一部「三銃士」はフランス王ルイ13世の時代、第二部と第三部はその息子のフランス王ルイ14世太陽王の時代ということらしい。
小説「モンテクリスト伯(巌窟王)」同じくアレクサンドル・デュマ・ペールが西暦1844年から新聞に連載した小説に「モンテクリスト伯」がある。日本では「巌窟王」というタイトルで親しまれているね。無実であるにも拘わらず検事の策略によって牢獄に送り込まれ、そこで14年間も過ごした人物が、やがて脱獄し、財宝を手に入れ、モンテクリスト伯と名乗って復讐を遂げていくという物語だね。
そのモンテクリスト伯が14年間も閉じ込められていたのが、上の画像の中の左の方にポツンと見えているイフ島のシャトー・ディフだった。フランス南部プロヴァンス地方の港町マルセイユの沖に浮かんでいるんだ。
とはいえ、アレクサンドル・デュマ・ペールがモンテクリスト伯に与えた姓はダンテスとなっている。これは当時フランスで盛んに読まれていた叙事詩「神曲」のダンテから取ったものと考えられるんだそうな。
アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)このフランスの小説家アレクサンドル・デュマ・ペールは、貧しい子供時代を過ごし、満足に学校にも行けなかったらしい。でも、独学で勉強し、「三銃士」を含む「ダルタニャン物語」や「モンテクリスト伯」など多くの作品を発表して成功し、大金を得たんだそうな。でも、なかなか血気盛んな人物だったみたい。決闘をして死に損なったこともあるらしい。西暦1830年にはフランス七月革命において革命軍に参加したこともある。(下の画像はドラクロワが七月革命をテーマに描いた「民衆を率いる自由の女神」。フランスの首都パリのルーブル美術館で見ることができる。)
他方、アレクサンドル・デュマ・ペールは、手に入れた大金で豪邸を建て、そこで連日のパーティを楽しんでいた。有名なグルメでもあり、「料理大事典」も著している。ワインに関しても一家言あり、例えばブルゴーニュ地方のワインの街ボーヌ近くで生産される貴重な白ワインであるル・モンラッシェについては「跪いて飲め」と言っていたんだそうな。
アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)の父親ついでと言っちゃ失礼だけど、大デュマ(アレクサンドル・デュマ・ペール)の父親トマもとっても興味深い人物だったみたい。彼はハイチでフランスの侯爵と黒人奴隷の女性との間に西暦1762年に生まれたらしい。トマは侯爵によって奴隷として売り飛ばされたんだけど、やがて同じ侯爵によって買い戻され、フランスに渡ったそうな。陸軍に入隊した彼は、やがて処刑されるフランス王ルイ16世に騎兵として仕えた。でも、フランス革命後には革命軍に参加し、出世して将軍にまでなったらしい。ところが、ナポレオンと共にエジプト遠征に参加したんだけど、そのエジプト遠征を批判してナポレオンに憎まれ、フランスに帰国させられたんだそうな。(下の画像はナポレオンのエジプト遠征の際に発見されたロゼッタ・ストーン。ロンドンの大英博物館で見ることができる。)
ところが、フランスへの帰国の途中で難破してイタリアのナポリに流れ着き、そこで捕虜になってしまった。西暦1801年に解放されてフランスに戻ったんだけど陸軍に復帰することも許されず、西暦1806年に亡くなっている。そんなトマに対して皇帝ナポレオンは年金の給付も認めず、おかげでアレクサンドル・デュマ・ペールは満足に学校へ行くことも出来なかったわけだ。
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