フランスとプロシアとによる普仏戦争既に普墺戦争にオーストリアを破り、ドイツにおける主導権を確立していたプロシアの次の標的は、皇帝ナポレオン3世統治下のフランスにあった。そして西暦1870年7月、ドイツを結束させてフランスに当たらせようと考えていたプロシアの宰相ビスマルクは、「エムス電報事件」によってフランスを挑発すると同時に、ドイツの世論を反フランスで纏め上げたんだ。対するフランスは、プロシアに対する軍事制裁を行う意志を固め、フランス東部アルザスを中心に20万人もの部隊を配備し始めた。それが西暦1870年7月16日のこと。しかし、その時点で既にプロシアは臨戦態勢に入っていた。(下の画像はアルザスの街ストラスブールのプチ・フランスの風景。)
西暦1870年7月19日、フランスがプロシアに宣戦を布告。しかし、とっくに戦争準備を整え士気も高揚していたドイツ軍の前にフランス軍は敗れ、9月2日にはフランス皇帝ナポレオン3世も捕虜となってしまった。
ドイツ軍によるフランスの首都パリ攻囲皇帝ナポレオン3世がドイツ軍の捕虜となった二日後の9月4日、フランスの首都パリで暴動が起こり、共和政が宣言されてフランス臨時国防政府が成立した。その臨時政府はプロシアと講和交渉を行ったが、条件が合わず講和は成立しなかったんだ。他方で、皇帝ナポレオン3世を捕虜にした後も進撃を続けたドイツ軍部隊18万人は、西暦1870年9月19日にはフランスの首都パリを攻囲した。(下の画像はエッフェル塔の上にあるレストラン「ジュール・ヴェルヌ」から眺めたパリとセーヌ川。はるか彼方にモンマルトルの丘のサクレ・クール寺院も見える。)
年が明けて西暦1871年1月5日、フランスの首都パリを攻囲していたドイツ軍が砲撃を開始した。既に3ヶ月近くもパリを守り続けていた市民は、不足する食糧を補う為に動物園の動物たちをも食料としつつ、抵抗を続けたんだそうな。
ヴェルサイユ宮殿の鏡の間における
ドイツ軍によるパリ攻囲が続いていた西暦1871年1月18日、パリ近くにあるヴェルサイユ宮殿にドイツ各領邦の主な王侯たちが集まった。その中には、後にノイシュヴァンシュタイン(白鳥城)を建設したことで知られているバイエルン王ルートヴィヒ2世もいたらしい。 |
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