ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1892年、バイエルン王ルートヴィヒ2世のノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)がドイツ南部に完成した。


ルートヴィヒ2世が築いたノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)

世界中から多くの観光客を引き寄せるドイツのロマンチック街道の中でも、最大の観光スポットといえば白鳥城とも呼ばれるノイシュヴァンシュタイン城だよね。下の画像はそのお城をペラット渓谷にかかるマリエン橋から眺めた様子。この橋から眺める城が最も美しいんだとか。

バイエルン王ルートヴィヒ2世のノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)をペラット渓谷にかかるマリエン橋から眺めた(ドイツ)

そんなわけでドイツの観光に多大な貢献をしているノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)なんだけど、軍事的には全く意味が無く、しかも居住性は極めて悪い。そんなお城を何故にバイエルン王ルートヴィヒ2世は築かせたのか。それがこのページのテーマだね。

ルートヴィヒ2世が育ったホーエンシュヴァンガウ城

西暦1832年、後にバイエルン王となるマクシミリアン2世は、シュヴァンガウ城を買い取った。とはいえ、12世紀に築かれたというその城は既に廃城寸前の状態となっていた。そこで 4年をかけて改築し、ホーエンシュヴァンガウ城(下の画像)と名づけた。 (後にルートヴィヒ2世によって築かれるノイシュヴァンシュタイン城からもほど近い場所にある。)

ノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)を築いたバイエルン王ルートヴィヒ2世が子供の頃に住んだホーエンシュヴァンガウ城(ドイツ)

西暦1845年、マクシミリアン2世の息子としてルートヴィヒ2世が生まれた。実際に生まれたのは8月23日あるいは24日と言われているけど、おじいさんのバイエルン王ルートヴィヒ1世を喜ばせるために8月25日生まれとされたらしい。というのも、おじいさんの誕生日が8月25日だったから。

西暦1848年にはルートヴィヒ1世が退位し、マクシミリアン2世がバイエルン王として即位した。その息子、3歳のルートヴィヒ2世は王太子となったわけだ。幼いルートヴィヒ2世は上の画像にあるホーエンシュヴァンガウ城で過ごすことが多かったらしい。

バイエルン王ルートヴィヒ2世とワーグナー

西暦1864年、マクシミリアン2世が亡くなり、息子のルートヴィヒ2世がバイエルン王として即位した。王となった彼は、大ファンだった作曲家のワーグナーを招いたらしい。

旧東ドイツのドレスデンにあるゼンパー・オペラ

ワーグナーは西暦1843年にドレスデン旧東ドイツ)にあるゼンパー・オペラ(上の画像)の指揮者となり、そこで「タンホイザー」などの初演を行っていた。しかし、西暦1849年に革命に関与したことで亡命し、バイエルンに招かれた頃にはあちこちを転々としていたらしい。

バイエルン王ルートヴィヒ2世は中世の騎士などに強く憧れており、ワーグナーの音楽に描かれた騎士の世界に強く魅了されていたらしい。そんなことも後にノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)を築かせたみたいだね。

ノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)の建設

とはいえ、現実の政治状況はバイエルン王としてのルートヴィヒ2世を中世騎士のロマンの世界にとどまらせてはくれない。西暦1866年にはプロイセンとオーストリアによる普墺戦争が勃発。議会の決定に従ってバイエルン王国はオーストリアの側に立って戦った。しかし、プロイセン王国の勝利。バイエルン王国は巨額の賠償金の支払いを行うこととなった。

かくしてバイエルン王国の財政が悪化している状況で、ルートヴィヒ2世は西暦1869年にノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)の建設を始めた。その責任者とされたのは、建築家ではなく、舞台美術家だった。なるほど、見た目の美しさはあっても、軍事的な意味もなく居住性の悪いお城になるわけだね。

その翌年の西暦1870年にはプロイセン王国がフランスと戦った普仏戦争が起こった。プロイセン王国が勝利を得て、ドイツ帝国が誕生する。その初代皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式は、フランスの首都パリの郊外にあるヴェルサイユ宮殿で行われた。その戴冠式においてルートヴィヒ2世はヴィルヘルム1世を推戴する役を与えられたそうな。

西暦1886年、ノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)はまだ完成してはいなかった。でも、ルートヴィヒ2世はこの城に住み始めたそうな。他方で彼はその他にもいくつもの城を建設していた。更には大ファンだったワーグナーのバイトイト祝祭劇場の建設をも支援していた。かくしてバイエルン王国の財政の悪化は進んでいった。

ルートヴィヒ2世の廃位

ルートヴィヒ2世がノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)に住み始めた年の6月9日、城に数台の馬車がやって来た。王国の危機的な状況を憂慮した高官たちは、王は精神の均衡を失っておりもはや執務することができないという意思の診断を根拠に、摂政をたてて王を拘束しようとしたらしい。

ところが、状況を察知した王の側近たちや地元の人々は政府の役人たちの手から彼を守り抜いたそうな。狂王とも呼ばれた彼は人々に慕われていたのかもしれない。(下の画像は麓の村から見上げたノイシュヴァンシュタイン城の様子。)

ノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)を麓の村から見上げた(ドイツ)

しかし、王を幽閉しようとするバイエルン王国政府の計画はついに成功した。6月12日、捕われたバイエルン王ルートヴィヒ2世は、ノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)から連れ出され、二度と戻ってくることはなかった。彼が連れて行かれたのは、スタルンベルク湖のほとりのベルク城だった。彼の気に入りの城の一つだ。でも、城は豪華な牢獄に改造されていた。

そのあくる日の6月13日、バイエルン王ルートヴィヒ2世と医者のグッデン博士の水死体がスタルンベルク湖で見つかった。二人の死の詳しい状況は未だに明らかになってはいない。

生前のルートヴィヒ2世は、自分が死んだらノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)を取り壊すようにと命じていた。他の誰にも城を渡したくなかったんだろうね。ところが、彼の死の6年後の西暦1892年、城は完成した。

今ではノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)は多くの観光客に開放されている。王国の財政を傾けながらも何の役にも立たないはずの城が、観光によって地元を潤しているんだ。あの世のルートヴィヒ2世もさぞかしとまどっているだろうね。

その後のバイエルン王国

廃位されたルートヴィヒ2世の王位を継承したのは、彼の弟のオットー1世だった。とはいえ、彼は西暦1870年から精神を病んでいたらしい。そんなわけで政務を執り行なったのは、二人の父であるマクシミリアン2世の弟(つまり二人の叔父)のルイトポルト王子だった。

西暦1913年、オットー1世が亡くなり、バイエルン王となったのはルイトポルト王子の息子のルートヴィヒ3世だった。でも、第1次世界大戦末期の西暦1918年、ドイツ革命によって王は退位せざるを得なくなり、王国は消えていったんだ。ドイツ帝国の領邦として存続していたプロイセン王国もザクセン王国も同様の運命をたどったんだけどね。

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