フランス南部プロヴァンス地方の街アルルと画家ゴッホ画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(フィンセント・ファン・ゴッホ)は西暦1853年にオランダ南部で生まれている。でも、彼は生涯にわたって引越しばかりしていたみたいだね。落ち着きたくて落ち着くことのできる場所を探していたのか、あるいは落ち着くつもりも無く旅を続けていたのか。16歳のとき、親戚のコネによって、ゴッホ(まだ画家にはなっていない)は画商の会社に勤め始めた。その4年後にはイギリスの首都ロンドンに転勤している。更に2年後にはフランスの首都パリに転勤したらしい。ところが、その翌年には画商の会社をクビになっているんだ。 そこから先のゴッホはかなりふらふらしている。牧師になる為の学校でも長続きせず、オランダに戻ったり、ベルギーへ行ったり。でも、何度目かのベルギー滞在の時には、ブリュッセル王立美術アカデミーで初めて絵の勉強をしたらしい。但し、他方で親戚の女性からはストーカー扱いされたり、自分の父親には精神病院に入れられそうになったりしたこともあった。 でも、30歳を過ぎた頃から、次第に本格的に絵に取り組んだみたい。オランダのアムステルダムの国立美術館ではレンブラントの絵を学び、ベルギーのアントワープではルーベンスの絵(ノートルダム大聖堂でルーベンスの絵を見ることができる)を研究したらしい。日本の浮世絵に関心を抱いたのもその頃のことだった。 そして西暦1886年、もうすぐ33歳になろうという画家ゴッホはパリのモンマルトルに住んでいた弟の部屋に転がり込んだ。モンマルトルの丘の画家たちの一人となって、多くの絵を描いたんだそうな。ゴーギャンと知り合ったのもその頃だった。
パリで2年を過ごした画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。やっぱり落ち着いた暮らしは向いていないみたい。西暦1888年にはフランス南部プロヴァンス地方の街アルルにやって来たんだ。(上の画像はアルルの円形闘技場の上から眺めた街並みとローヌ川の風景。)
ゴーギャンとゴッホとの共同生活と入院画家ゴッホはアルルの街がとっても気に入ったらしい。明るいアルルの街で画家ゴッホは意欲的に絵を描き、その生涯でも名高い作品の多くを完成させている。例えば、下の画像はアルルで描かれた「ローヌ川の星月夜」。パリのオルセー美術館で見ることの出来る作品だね。
アルルに新天地を見出した画家ゴッホは、パリ時代に知り合ったゴーギャンにアルルでの共同生活を提案した。やがてアルルにやって来た画家ゴーギャン。でも、ゴッホとゴーギャンとの共同生活は長くは続かなかった。やがて二人の関係は悪化し、ゴッホは自分で自分の耳を切り落とすという事件を起こしてしまった。
画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの自画像入院先のサン・レミ・ド・プロヴァンスの精神病院の医師ガシェ氏に贈った画家ゴッホの自画像(パリのオルセー美術館にある)が、下の画像なんだ。
画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは40作以上もの自画像を残しているらしい。でも、上の画像は最後に近い1枚なんだそうな。描かれたのは西暦1889年秋と考えられている。
画家ゴッホの最後の傑作「オーヴェール・シュール・オワーズの教会」上の画像の自画像を描いた翌年の西暦1890年、画家ゴッホは頼み込んでサン・レミの精神病院を退院した。そのゴッホが目指したのは、明るいアルルではなくパリだった。そのパリの近郊にある村オーヴェール・シュール・オワーズが画家ゴッホの最後の目的地だった。
その村で画家ゴッホが仕上げた最後の傑作が、上の画像にある「オーヴェール・シュール・オワーズの教会」(パリのオルセー美術館にある)だった。この作品に関して、ゴッホは姉への手紙の中で書いている。
この手紙を書いた翌月、西暦1890年7月29日、画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホはパリ近郊の村オーヴェール・シュール・オワーズで自殺を図り、その2日後に亡くなっている。
発見されたゴッホの作品西暦2013年9月に眼にした報道によれば、ゴッホが西暦1888年にフランス南部アルル郊外の丘の風景を描いた作品が発見されたらしい。1世紀以上に渡って贋作とされていたんだけど、オランダのアムステルダムにあるゴッホ美術館によって、ゴッホの作品だと確認されたんだそうな。ゴッホは存命中は評価されなかったこともあり、隠れた作品はもっと他にもあるかもしれないね。
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