第二次世界大戦の曲がり角西暦1939年9月にポーランドに侵攻して後、1年も経たないうちにドイツはデンマーク、ノルウェー、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを占領し、翌年6月にはフランスの首都パリをも占領してフランス軍を降伏させている。そんな破竹の勢いのドイツ軍の進撃だったけど、西暦1943年頃から戦局も曲がり角にさしかかったのかもしれない。西暦1943年には連合国軍がイタリア本土に上陸してナポリを占領し、翌年6月にはローマをも攻略している。更に8月には連合国軍によってパリも解放されたんだ。 他方でドイツ国内においては、首都ベルリンにあるヴィルヘルム皇帝記念教会の鐘楼の鐘が、西暦1943年1月に取り外されて戦争遂行の為に供出されている。そもそもこの教会は普仏戦争に勝って成立したドイツ帝国の初代皇帝ヴィルヘルム1世の功績を讃えるために建立されたもの。しかも、この鐘楼の鐘は敗れたフランス軍の大砲を鋳潰して鋳造したものだった。それを供出するということが当時のドイツの状況を物語っているよね。
そんなヴィルヘルム皇帝記念教会が上の画像の奥に見えているんだけど、なんか妙な形だよね。かつてこの教会の塔の高さは110メートル以上もあった。でも、今は70メートルほどしかない。というのも、西暦1943年11月に行われた連合国軍の空爆によって教会の塔の頂部が崩れてしまったんだ。それを今も修復することなく破壊されたままの状況で残してある。ドイツの人々にとってはキリストを磔にした十字架のようなものかもしれない。
ドイツの首都ベルリンにソ連軍戦車が突入その後もドイツ各地で連合国軍による空爆が行われた。特に旧東ドイツの古都ドレスデンに対しては西暦1945年2月に激しい空爆が行われ、街の8割以上が破壊され、多くの人々が亡くなっている。ザクセン王国ゆかりのツヴィンガー宮殿などの歴史的な建物も破壊されてしまった。そんなドイツに対して連合国軍の陸上部隊も次第に近づいてくる。ドレスデン爆撃と同じ2月にはコルマールの戦いによってフランス東部アルザス地方からドイツ軍が駆逐され、連合国軍は西からライン川を渡ってドイツに侵攻していった。
そして西暦1945年4月30日、東から侵攻してきたソ連軍の戦車がベルリンに突入した。その戦車が上の画像。ベルリン市内にあるソ連軍の戦勝記念碑の前に置かれている。ドイツがナチスの原罪を背負っているということを突きつけるようにね。
ベルリンにある戦勝記念塔に残る戦争の傷跡ソ連軍戦車がベルリンに突入してきたその日、ヒトラーは自殺した。でも、直ちに戦争は終わらない。ベルリンでも市街戦が続いたんだそうな。ナポレオンが入城のパレードを行ったブランデンブルク門も市街戦で損傷を受けた。下の画像に見る戦勝記念塔にもドイツ軍の兵士が立て籠もり、抵抗を続けた。この塔には今も焼け焦げや弾痕が残っている。
ちなみに、この戦勝記念塔は19世紀の三つの戦争における勝利を記念して建てられたもの。西暦1864年にデンマークと戦ったシュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争、西暦1866年にオーストリアと戦った普墺戦争、西暦1870年から翌年にかけて皇帝ナポレオン3世のフランスと戦った普仏戦争。
ドイツの敗戦ベルリンにソ連軍の戦車が突入して数日後の5月7日、ドイツが降伏した。ドイツも首都であるベルリンも東西に分断されて占領された。そしてソ連軍は占領地域から様々なものを持ち帰っている。名高いマイセン磁器の生産設備も接収された。そしてペルガモン博物館の至宝であるゼウスの大祭壇(下の画像)も持ち去られた。(ちなみに、このゼウスの大祭壇は戦時中は空爆を避けて郊外に疎開していたそうな。)
そんなゼウスの大祭壇が旧東ドイツに返還されたのは西暦1959年のこと。でも、まだドイツの戦後は終わらない。あのベルリンの壁が建設されたのは、その2年後のことだった。
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