ポツダム郊外にあるツェツィリエンホフ宮殿旧東ドイツの街ポツダムの郊外にあるツェツィリエンホフ宮殿 ・・・ といっても、知っている人は多くはないかもしれない。このツェツィリエンホフ宮殿(下の画像)は、西暦1917年にドイツ帝国の当時の皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンの為に建てられた宮殿だった。
といっても、ドイツ帝国は第一次世界大戦の末期に起きたドイツ革命によって崩壊し、最後の皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンは皇帝となることもなく、国外に亡命したんだけどね。
ポツダム会談この宮殿に集まってきたのは、イギリスのチャーチル首相(後にアトリー首相に交替)、アメリカのトルーマン大統領、ソ連のスターリン書記長などなど、連合国の首脳たちだった。
彼らはこのツェツィリエンホフ宮殿の会議室(上の画像)でポツダム会談を開催したんだ。その会談においては、まずは降伏したドイツの占領政策、ポーランドをはじめとする東欧諸国の将来などについての諸問題について議論されたわけだ。
日本の無条件降伏を要求するポツダム宣言と原爆投下続いての議題は、引き続き戦いを続けていた日本に対する措置だった。既に敗色濃厚となっていた日本ではあったけれども、仮に日本の本土に上陸作戦を行うとなれば甚大な損害が生じることをアメリカは心配していた。かくして、日本に対して無条件降伏を要求するポツダム宣言が7月26日に発表されたわけだ。ポツダム宣言に対して、当時の日本政府は明確な回答をしなかった。つまりは宣言を実質的に無視した結果となっている。日本が宣言を受諾しないことを予想してしたアメリカは、原爆の投下を準備していた。アメリカはポツダム会談まではソ連に対して対日参戦を要請していたけれども、むしろソ連の対日参戦の前に原爆投下によって日本を降伏させることを期待していたらしい。かくして8月6日に広島に原爆が投下され、十数万人もの人々の命が奪われてしまった。(下の画像は広島の原爆ドーム。)
その3日後の8月9日には日ソ中立条約を破棄したソ連が日本に対する戦いを始めた。加えて同日には長崎にも原爆が投下され、7万人以上もの人々が亡くなっている。
日本のポツダム宣言受諾広島と長崎に対する原爆投下に加えてソ連の対日参戦を受け、日本の鈴木首相は政府はポツダム宣言を受託する方向に傾いていた。しかし、阿南陸相は戦争継続を説き、政府は結論を出すことができなかった。その後、二度にわたる御前会議を経て、8月14日にポツダム宣言を受諾することが決定され、直ちに連合国側への通告が行われた。(下の画像は日本の降伏、すなわち平和の回復を報じる海外の新聞。)
その翌日の8月15日には玉音放送によってポツダム宣言の受諾が日本の国民に発表されている。ちなみに、軍人の一部は玉音放送を阻止する為のクーデター(宮城事件)を起こそうとしていたらしい。その計画は未遂に終わり、玉音放送は予定通りに行われたんだけどね。
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