イタリア北部の中心ミラノイタリアの中心と言えば頭に浮かぶのは首都ローマだよね。あるいは古都フィレンツェかな。でも、イタリア北部の中心といえば、あるいはイタリアの産業・経済の中心と言えば、ミラノだね。下の画像はそんなミラノのドゥオモ(大聖堂)の様子なんだ。
西暦286年、皇帝ディオクレティアヌスはミラノを西ローマ帝国の首都と定めている。ところが、イタリア北部に位置し、ガリア(今のフランス)などにも近いミラノは、古来から蛮族の侵入にさらされてきたんだ。西暦402年にはミラノは西ゴート族に包囲され、皇帝ホノリウスは帝国の首都をラヴェンナに移している。
自治都市、そして大公国ミラノ12世紀に入ると神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世(赤髯王バルバロッサ)によるイタリア侵入に苦しんだけれども、諸都市とロンバルディア同盟を結んで対抗し、やがてはミラノは自治都市としての地位を確保している。
しかし、西暦1277年からはヴィスコンティ家、次いで西暦1450年からは傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァに始まるスフォルツァ家というミラノ大公家の統治下に入っている。(上の画像は大公家の居城となっていたミラノのスフォルツェスコ城。)
再び外国勢力の支配下に落ちたミラノところが、15世紀末からはフランス王シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世などの侵入に苦しみ、西暦1535年からはハプスブルク家のカルロス1世(皇帝カール5世)のスペインの支配下に落ちてしまった。その後、西暦1701年に始まったスペイン継承戦争の結果、オーストリアに帰属することになったんだ。
但し、フランス革命の後のナポレオンのイタリア遠征によってミラノはフランスに従属している。余談ながら、その際にナポレオンはサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にあるダヴィンチの「最後の晩餐」を見たらしい。
サルディニア王国に割譲されたミラノ、そしてイタリア王国そんなわけで再びオーストリアの支配下に戻されたミラノにおいて、西暦1848年に反乱が起きている。一時期はオーストリア軍が撤退を余儀なくされたそうな。でも、結局は反乱軍は敗れ、街はオーストリア軍によって奪還されてしまった。その後、皇帝ナポレオン3世のフランスと同盟を結んだサルディニア王国が西暦1859年にオーストリア軍を撃ち破った。その結果、ミラノを中心とするロンバルディア地方がサルディニア王国に割譲されるに至ったわけだ。
その2年後、統一イタリア王国が成立した。西ローマ帝国の滅亡の後、ずっと分裂していたイタリアがようやく統一されたわけだ。そんな統一イタリア王国の初代国王が、上の画像にあるヴィットリオ・エマヌエーレ2世だった。(この騎馬像はローマのヴェネツィア広場で見ることが出来る。)
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