ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1830年、ベルギーがネーデルラント連合王国から独立し、オランダの支配を脱した。


オランダが支配するネーデルラント連合王国から独立したベルギー

オーストリアのハプスブルク皇帝家の支配下にあったネーデルラント南部(今のベルギー)は、西暦1789年に反乱を起こし、その翌年にはベルギー合衆国を成立させて独立した。でも、その年の内にオーストリア軍に占領されてベルギー合衆国は倒されてしまった。

その後はフランス革命によって成立したフランス共和国軍によって占領され、併合され、皇帝ナポレオンのフランス帝国の一部となっていた。西暦1815年に皇帝ナポレオンがワーテルローで敗れた後は、オランダが支配するネーデルラント連合王国の一部となったんだ。

このネーデルラント連合王国の支配者である国王はオランダ人だった。オランダの人々の多くはジャン・カルヴァンの教えに従うプロテスタントだったのに対して、ベルギーの人々の多数派はローマ教皇に従うカトリックだった。オランダの人々はオランダ語を話すのに対して、ベルギー(特に南部)の多くの人々はワロン語(フランス語の方言)を話していた。

そんなわけでベルギーの人々はオランダの国王に対して広範な自治を求めたんだ。ところがベルギーの広範な自治は認められず、ベルギーの人々の不満は蓄積されていった。その蓄積された不満の温度を高めたのは、西暦1830年に起こったフランス七月革命だった。

そして翌月、今のベルギーの首都ブリュッセル市内の劇場でオペラが上演された。スペイン支配下のナポリで起きた反乱がそのオペラのテーマだった。そのオペラを観たブリュッセルの人々が始めたデモは暴動となり、それがベルギーの独立運動となった。ベルギーの人々の蓄積された不満にオペラが火をつけたというわけだね。

ベルギーの首都ブリュッセルにある広場グラン・プラスの夜景

独立を求めるベルギーに対してオランダ軍が派遣された。そのオランダ軍はベルギー独立の中心となったブリュッセルの占領を目指したらしい。でも、結局は市街戦で敗れ、オランダ軍はブリュッセルを占領することが出来なかった。(上の画像はブリュッセルの中心部にある広場グラン・プラスの夜景。)

そんなブリュッセルにおいてベルギーの臨時政府が組織され、独立が宣言されたのは、西暦1830年10月のことだった。

ベルギーの独立を承認したオランダとヨーロッパ列強

ベルギーの首都ブリュッセルで国民会議が開かれ、西暦1831年2月にはベルギー憲法が制定された。当初ベルギー国王にはフランス国王ルイ・フィリップの次男を推戴することになっていたが、イギリスの反対によってフランスが応じなかった。結局はドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公が6月にベルギー国王レオポルド1世として即位している。

ところが、オランダ側にはベルギーの独立を認めるつもりは無かった。8月にはオランダ軍がベルギーに侵攻している。対するベルギー軍は敗北。しかし、フランス軍が介入した結果、オランダ軍はベルギー北部のアントワープに兵を引いている。(下の画像はベルギーの街アントワープの中心にあるマルクト広場の風景。)

ベルギーの街アントワープのマルクト広場

オランダに対する防衛を強化する為、ベルギー国王レオポルド1世はベルギー軍を再編成し、フランス人の軍事教官を雇用している。更にはフランスの王女と結婚し、フランスとの関係を更に強化している。加えてイギリスの支援を得て、イギリス艦隊がオランダを封鎖する一方、フランス軍がアントワープを陥落させ、最終的にオランダ軍を追い払うことに成功した。

そして西暦1839年、イギリスの首都ロンドンにおいてヨーロッパ列強が参加して結ばれた条約にオランダも参加、ようやくベルギーの独立が最終的に確定した。

ベルギーにおけるフラマン語(オランダ語)とワロン語(フランス語)

そんなわけで、カトリックが多数派を占めるベルギーがプロテスタントのオランダの支配を脱して独立したんだ。ところが、このベルギーには言語に関する難しい問題が残されていた。

独立したベルギーは南部の人々が母語とするワロン語(フランス語の方言)を国語としたんだけど、北部にはフラマン語(オランダ語の方言)を母語とする人々が多かった。しかも、少ないながらもドイツ語を母語とする人々もいたんだ。そんな国民の統合をどうするのか。

ユーロ導入前のベルギーの紙幣

上の画像はヨーロッパの新通貨ユーロの導入までベルギーで使われていた紙幣なんだけど、その表(上の画像の左上部分)にはワロン語(フランス語)でベルギー国立銀行と記載されている。対して裏(上の画像の右下の部分の数字 500の上部)にはフラマン語(オランダ語)とドイツ語でベルギー国立銀行と記載されている。今はもう使われていない紙幣なんだけど、ベルギーにおける言語の状況を物語るものだよね。

西暦1830年に独立した時点のベルギーの国語はワロン語(フランス語)のみだった。その後のフラマン語(オランダ語)を母語とする北部の作家、聖職者、国会議員などの運動の結果、フラマン語(オランダ語)も公式言語として認める法律が成立したのが西暦1898年だった。

第一次世界大戦においてベルギーはドイツによって占領されたんだけど、ドイツはベルギーを使用言語によって二つの地域に分割して統治したらしい。その占領から解放された西暦1919年の総選挙においては、北部のフラマン語(オランダ語)地域の独立を求める国会議員が5人も当選した。

その後も言語に関する対立は続いた。西暦1966年には、ルーバン・カトリック大学からワロン語(フランス語)関係組織が分離せざるを得なくなり、新たな大学の設立が余儀なくされている。西暦1968年にはキリスト教社会党は言語によって実質的な分裂をしている。

西暦1970年には憲法改正により、ベルギー国内に言語による共同体の並存が公式のものとなった。その後も何度か組織・制度の改正・変更が行われ、西暦1993年にはベルギーは言語の異なる共同体による連邦制とされている。

そんなベルギーの首相が西暦2013年9月に中国を訪問した。その際に中国からパンダのカップルがベルギーに贈られることになったんだ。そのパンダたちはベルギー南部の自然公園で暮らすことになった。ところが、その自然公園はワロン語(フランス語)地区の中にあった。フラマン語(オランダ語)地区の人々は、ワロン語(フランス語)地区出身の首相の介入によるものだと非難し、両者の反発が強まっているらしい。平和の使者パンダがとんだ騒ぎをもたらしちゃったわけだね。

ベルギーのフラマン語(オランダ語)地域が見守っていたのが、西暦2014年09月18日に行われたイギリス北部スコットランドの独立の是非に関する住民投票だった。その結論は独立反対。他方でスペインのカタルーニャ自治州は同年11月09日に独立をめぐる住民投票を実施するらしい。スペイン中央政府は認めていないけどね。同様に独立を志向するベルギーのフラマン語(オランダ語)地域は、カタルーニャ自治州の成り行きを見守っているんだろうな。

ベルギーの王制の危機

ベルギーでは独立翌年の西暦1831年に即位したレオポルド1世から王制が続いている。でも、その王制をめぐってベルギーが内戦の危機に陥ったことがある。

西暦1940年5月、ナチス・ドイツ軍がベルギーに侵攻を始めた。ベルギー軍が抵抗したものの全土が3週間で制圧され、ベルギー軍は降伏。ベルギー政府はパリを経由してロンドンに亡命した。ところがベルギー国王レオポルド3世は首都ブリュッセルに残った。ドイツ側と協議する為だったと言われる。が、後に国王レオポルド3世は国家に対する反逆罪の嫌疑をかけられることになる。

やがてベルギー国王レオポルド3世とその家族はドイツに連行され、監禁されることになる。そして西暦1945年、ドイツの首都ベルリンにソ連軍戦車が突入した後、ベルギー国王レオポルド3世はアメリカ軍によって解放された。でも、反逆の嫌疑などもあってベルギーに帰国することができず、スイスでの亡命生活を余儀なくされたらしい。

そして西暦1950年、ベルギーで行われた国民投票の結果、国王レオポルド3世の帰国が認められた。ところが、国王の帰国と同時にベルギーでは大規模なデモやストライキが発生し、死者さえも出ていた。国王の戦争中の行動に対する嫌疑に加えて、イギリスの平民の女性との再婚についても国民が反発を感じていたことも背景にあったらしい。

ベルギーの首都ブリュッセルにあるサン・ミシェル大聖堂の内部

ベルギー王制の危機を感じた国王レオポルド3世は、息子に国王大権を譲渡した。やがて事態が沈静化し、西暦1951年には国王レオポルド3世が退位し、息子のボードワン1世が即位している。(上の画像はベルギー国王ボードワン1世が結婚式を挙げた首都ブリュッセルにあるサン・ミシェル大聖堂の内部。)

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