ローマのフォロ・ロマーノの残るサトゥルヌスの神殿跡イタリアの首都ローマのコロッセオ(円形闘技場)は多くの観光客が訪れる人気のスポットだね。そして、その周囲に広がるフォロ・ロマーノには、古代ローマ時代の多くの遺跡が残っているんだ。例えば、下の画像はサトゥルヌスの神殿跡。そもそもは紀元前509年に古代ローマから追放されたエトルリア系の王タルクィニウス・スペルブスが建立したものなんだそうな。
でも、その最初のサトゥルヌスの神殿は、紀元前387年頃(390年説もある)に破壊されている。ケルト系ガリア人が古代ローマを略奪した時のことだった。やがてイタリア全土を支配し、更にはヨーロッパの大部分と地中海世界を征服した古代ローマも、その頃はまだイタリアの一部を支配するだけの勢力だったんだ。
イタリアを南下したケルト系ガリア人紀元前4世紀初頭、ガリア(今のフランス)から山々を越えてイタリアに侵入したケルト系の部族がいた。イタリアを南下した彼らは、やがてエトルリア人の街クルシウムに接近したらしい。(その街は今のトスカナ地方の街シエナだと考えられている。下の画像はシエナの街と郊外の風景。)
ケルト系ガリア人の接近に脅威を感じた人々は、古代ローマに支援を求めた。その要請に応じた古代ローマは、クルシウムの街に使節を派遣したんだ。ところが、その使節とケルト系ガリア人との間に争いが起こり、ガリア人の中に死者が出たらしい。その復讐の為、ケルト系ガリア人の部族はローマに向かって進軍を始めたというわけだ。
古代ローマを略奪したケルト系ガリア人接近してくるケルト系ガリア人の部族を古代ローマの軍が迎え撃った。ところがローマ軍は敗れ、ケルト系ガリア人部族のローマ侵入を食い止めることが出来なかった。やむなく、ローマの人々は街の中心のカピトリーノの丘の守りを固めたらしい。下の画像はフォロ・ロマーノの中にあるカピトリーノの丘とタブラリウム(公文書館)の様子なんだ。
そんなカピトリーノの丘に攻め寄せたケルト系ガリア人たち。固めた守りを破ることは出来なかった。でも、カピトリーノの丘を除く古代ローマの街は略奪された。その際にサトゥルヌスの神殿も破壊されたわけだ。
その後の古代ローマケルト系ガリア人との戦いや略奪・破壊に苦しんだ古代ローマは、その反省に基づいて兵制改革を進めたらしい。その上で周辺のラテン人たちを統合する戦いを進めている。その為に古代ローマ軍は南のカンパーニャ地方にも進出し、後にポンペイの街を火山灰で埋めたヴェスヴィオ火山近くでも戦いに勝利を得ている。(下の画像はナポリのサンタ・ルチアから眺めたナポリ湾と遠くのヴェスヴィオ火山の風景。)
更に古代ローマはイタリアの山間部に住むサムニウム人や南部のギリシャ人とも戦っている。カルタゴに対するポエニ戦争を制して地中海に雄飛する前にイタリアでの長い戦いを続けていたんだね。
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