ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1622年、イタリア出身のカミロ・コンスタンツォ神父が日本の田平で火刑に処されて殉教した。


イエズス会に寄進された長崎

このページで採り上げたのは、西暦1622年に火刑に処されて殉教したカミロ・コンスタンツォ神父なんだ。でも、まずはその殉教から半世紀ほど遡る頃の出来事から書くことにしよう。

西暦1549年にフランシスコ・ザビエルが日本でキリスト教の布教を始めてから、各地でキリスト教の信者が増えていった。特に九州においては、戦国大名の中にもキリスト教徒になる者もいた。その一人が当時の長崎周辺を支配していた大村純忠だった。

西暦1563年にキリシタンとなった彼は、西暦1579年には長崎をイエズス会に寄進している。キリスト教の洗礼を受けた後は側室たちを遠ざけたとの話が残るほど、彼は敬虔なキリスト教徒だったらしい。

でも、彼がキリスト教に近づいたのはヨーロッパの経済力と軍事力を利用する為だったとの話もある。実際、イエズス会に寄進をする前年、つまり西暦1578年には龍造寺家によって長崎を攻められ、ポルトガル船の助けを借りて防衛することができたんだそうな。(下の画像はグラバー園から眺めた長崎の風景。)

グラバー園から眺めた長崎の風景

ところが、キリシタン大名である大村純忠による長崎のイエズス会への寄進が、やがてキリスト教にとっての不幸を惹き起こすことになる。西暦1587年のことなんだけど、九州征伐を終えた豊臣秀吉を驚かせることがあった。それが長崎がイエズス会の所領となっているということだった。

戦国大名たちにまでキリスト教が広まりつつあることの危険性を感じた秀吉は、西暦1587年にバテレン追放令を発し、キリスト教の宣教師たちの国外追放を命じている。ちなみに、バテレンとはポルトガル語のパードレ(神父)から来た言葉なんだそうな。

但し、豊臣秀吉は南蛮貿易によって得られる経済的なメリットも重要視していた。というわけで、このバテレン追放令の効果は中途半端なものでしかなかったらしい。但し、熱心なキリシタンだった高山右近などは信仰を守る為に領地や地位を捨ててしまったんだけどね。

日本二十六聖人の殉教

ところが、豊臣秀吉によるキリスト教に対する圧迫はそれで終わらなかった。西暦1596年に彼は再び禁教令を発し、京都に滞在するフランシスコ会の宣教師・修道士や信徒たちを処刑するようにと命じたらしい。ちなみに石田三成の尽力によって、大名の地位を投げ捨てていた高山右近は難を逃れることが出来たんだそうな。

しかし、京都で捕らえられた24人は、秀吉の命によって処刑地である長崎まで歩かされている。そして翌年の2月、長崎への旅の途中で加えられた2人を含む26人が磔刑によって殉教したんだ。その後、26人は西暦1862年にローマ教皇ピオ9世によって聖人の列に加えられている。(下の画像は長崎にある日本二十六聖人記念碑。)

長崎にある日本二十六聖人記念碑

後に聖人とされた26人の中には、5人のスペイン人と1人のポルトガル人もいた。彼らはいずれもフランシスコ会の司祭や修道士だったらしい。ザビエルから数十年の布教の歴史を持つイエズス会は西暦1587年の秀吉によるバテレン追放令以後は布教活動において支配者の意向に配慮をしていた。でも、新参のフランシスコ会は目立つ活動をしていたたけに多くの殉教者を生むことになったと言われている。

慶長の禁教令

豊臣秀吉の死後まもなく徳川幕府による支配が始まった。ウィリアム・アダムス(三浦按針)を旗本とした徳川家康は、キリスト教に対して寛容な姿勢を見せていた。

ところが、西暦1612年には江戸や京都などの直轄地において禁教令を発し、キリスト教の布教を禁じた上に教会の破壊を命じている。更に翌年には、直轄地に限らず日本全土に対して同様の禁教令を発したんだ。その結果、西暦1614年には日本各地で教会が取り壊されている。更には宣教師や修道士、そして日本人キリシタンたちも海外に追放されてしまった。

富山県の高岡城跡に立つ高山右近像

海外に追放された日本人キリシタンの中には、高山右近もいた。西暦1587年の秀吉のバテレン追放令によって領地も地位も投げ捨てた彼は、翌年には前田利家の招きに応じて金沢に赴き、その地で暮らしていた。高岡城(今の富山県高岡市にある)の築城などにも関与したそうな。しかし、そんな高山右近も慶長の禁教令によってマニラに追放されてしまった。西暦1615年、マニラにおいて彼は病死している。

元和の大殉教

その後、徳川幕府はキリスト教に対する抑圧と鎖国体制を次第に強めていった。そして西暦1620年、宣教師2名が秘かに日本に潜入しようとしていたことが発覚。これが契機となり、幕府のキリスト教に対する姿勢は一気に厳しいものとなったらしい。

以後、数年間にわたり、各地で数十人単位での処刑が続き、多くの人々を殉教させている。その一人が西暦1622年に田平(長崎県平戸市)で火刑に処されたカミロ・コンスタンツォ神父だった。下の画像は田平の焼罪史跡公園に立つ殉教の碑なんだけど、紅蓮の炎の中で昇天していく神父が描かれている。

長崎県平戸市田平の焼罪史跡公園に立つ殉教の碑

カミロ・コンスタンツォ神父は西暦1571年にイタリア南部のナポリ近くの街で生まれている。20歳の年にはイエズス会に入り、西暦1605年に日本で布教活動を始めた。しかし、慶長の禁教令によって西暦1614年にはマカオに追放されてしまった。

でも、彼は西暦1621年には秘かに日本を訪れ、各地で布教を行った。しかし、やがて捕らえられ、西暦1622年に田平において火刑に処されたんだそうな。ちなみに、彼に協力した生月島の日本人キリシタンたちは中江ノ島で処刑されたらしい。以後、小さな無人島の中江ノ島は生月島のキリシタンにとっての聖地になったとか。

徳川幕府によるキリスト教に対する弾圧は多くの殉教者を生んだ。でも、必ずしも全ての宣教師・修道士たちが処刑されたわけではない。例えばポルトガル人のクリストヴァン・フェレイラ。イエズス会の宣教師だった彼は西暦1633年に捕えられた。拷問によってキリスト教を棄ててしまった彼は、沢野忠庵と名乗り、幕府のキリシタン弾圧に関与したらしい。

同じくイエズス会の宣教師だったイタリア人のジュゼッペ・キアラも拷問によってキリスト教を棄教し、岡本三右衛門と名乗り、やはりキリシタン弾圧に関与している。沢野忠庵も岡本三右衛門も遠藤周作の作品「沈黙」に描かれた人々のモデルになっているんだそうな。

同じ頃に捕らえられた著名な人物に中浦ジュリアンがいる。天正遣欧少年使節に参加してローマを訪れた少年たちの一人だね。西暦1608年に司祭となった彼は、秘かに布教活動を続けた。しかし、西暦1632年に捕らえられた。拷問に耐え続けて4日目、ついに亡くなってしまった。クリストヴァン・フェレイラの棄教と同じ西暦1633年のことだった。

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