イタリアの古都フィレンツェでも人気の高いウフィツィ美術館イタリアを訪れる観光客に最も人気の高い街といえば首都ローマか、あるいは古都フィレンツェだろうか。そんなフィレンツェで多くの人々を集めるのが、大聖堂(ドゥオモ)であり、ウフィツィ美術館かな。
上の画像はフィレンツェのウフィツィ美術館の前に並ぶ人々の行列の様子なんだけど、ここで1時間あるいは2時間ほど待つのは当たり前。運が悪ければ数時間も待たされることもあるらしい。出来れば事前にウェブで予約しておきたいよね。(旅行業者さんでも予約を手配してくれる。)
そもそもはオフィスとして建てられたウフィツィ美術館そんな人気の高い観光スポットであるウフィツィ美術館なんだけど、「ウフィツィ」というイタリア語の言葉は英語で言えば「オフィス」に当たるんだそうな。つまりは事務所であり役所だよね。それもそのはずで、メディチ家のフィレンツェ大公コシモ1世の命によって役所として西暦1560年に建設が始まったのが、今のウフィツィ美術館の建物だったそうな。但し、この建物が西暦1580年に完成した時には、トスカナ大公コシモ1世は既に亡くなっていたらしい。ついでながら、この建物の設計を行ったヴァザーリもその時点では亡くなっていたんだそうな。(ヴァザーリはフィレンツェを流れるアルノ川にかかるヴェッキオ橋の上のヴァザーリの廊下を築いたことでも名高い。)
その後もこのウフィツィ美術館の建物はメディチ家の代々のトスカナ大公のオフィスとして使われていったんだ。(上の画像はメディチ家と縁の深いルネサンスの画家ボッティチェッリの「春(プリマヴェーラ)」なんだけど、この作品もウフィツィ美術館で見ることが出来る。)
メディチ家の断絶とウフィツィ美術館の一般公開ところで、フィレンツェのウフィツィ美術館で下の画像の肖像画を見ることが出来る。この人物は16世紀前半のイタリアで傭兵隊長として名高い「黒備えのジョヴァンニ」なんだけど、メディチ家の傍系(ジョヴァンニ・ディ・ビッチの次男、すなわち国父コジモの弟のロレンツォの子孫)の出身の彼の息子が初代トスカナ大公コシモ1世となり、その子孫がトスカナ大公位を継承していったわけだ。
ところが、そのメディチ家の最後のトスカナ大公ジャン・ガストーネは後継者を残すことなく西暦1737年に亡くなってしまった。彼の姉のアンナ・マリーア・ルイーズ・デ・メディチはその6年後に亡くなり、メディチ家嫡流は断絶してしまったんだ。
ウフィツィ美術館に続いてパラティナ美術館ウフィツィ美術館の一般公開から64年後の西暦1833年のことなんだけど、同じくフィレンツェにあるピッティ宮殿の中のパラティナ美術館が公開された。トスカナ大公の私的な宮殿となっていたピッティ宮殿にも多くの美術品のコレクションがあった。パラティナ美術館の公開によって、そんな多くの美術品を人々が見ることができるようになったわけだ。
そんなパラティナ美術館のコレクションの中には、ラファエロの「小椅子の聖母」(上の画像)もある。ウフィツィ美術館を見たら、ちょいとヴェッキオ橋を渡ってピッティ宮殿まで足を伸ばし、その中にあるパラティナ美術館にも入らないともったいないよね。
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |