ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1747年、プロシア王国において、フリードリヒ2世(大王)の夏の離宮サン・スーシ宮殿が完成した。


プロシア王フリードリヒ2世(大王)とサン・スーシ宮殿

啓蒙専制君主の代表者の一人として教科書にも登場するプロシア王フリードリヒ2世(大王)が残したものの一つが、旧東ドイツの街ポツダムにあるサン・スーシ宮殿だよね。下の画像がその外観なんだけど、建物内での撮影が禁じられていて、残念ながら内部の様子を見ることの出来る画像は無いんだ。

ドイツ東部の街ポツダムにあるサン・スーシ宮殿

このサン・スーシ宮殿の建設が始まったのが西暦1745年、完成は西暦1747年のことだった。本来はフリードリヒ2世(大王)の夏の離宮として建てられたもの。ホーエンツォレルン家の宮廷は首都ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿に置かれていたからね。でも、王はポツダムのサン・スーシ宮殿で過ごすことが多かったらしい。

若き日のフリードリヒ2世(大王)

フリードリヒ2世は西暦1712年にベルリンで生まれている。父であるプロシア王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は兵隊王と呼ばれるほどにプロシア王国の軍事力の強化に熱心だった。ちなみに、プロシア王国は軍を持つ王国ではなく、王国を持つ軍であるという言葉もある。

そんな兵隊王と呼ばれる父親は、息子が音楽などの芸術にうつつを抜かすことを好まなかった。でも、フリードリヒ2世は音楽を好み、特にフルートの演奏についてはプロ級になるほど練習したそうな。ちなみに、後にフリードリヒ2世は大バッハの息子の一人を音楽家として仕えさせ、その縁もあって大バッハは王に拝謁したこともある。

イタリアの古都フィレンツェのサンタ・クローチェ教会にあるマキャベリの墓

フリードリヒ2世は哲学などの学問にも熱心に取り組み、いくつもの著作も残している。その中でも最初のものは「反マキャベリ論」だった。(上の画像はイタリアの古都フィレンツェサンタ・クローチェ教会にあるマキャベリの墓。)

マリア・テレジアとフリードリヒ2世

フリードリヒ2世は「反マキャベリ論」において権謀術数を否定し、国民の模範となるような道徳的な君主たるべしと説いている。しかし、西暦1740年にプロシア王として即位した後、彼のふるまいは「反マキャベリ論」で説いたこととは正反対のものだった。

彼の即位の半年後、西暦1740年10月にハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝カール6世が亡くなった。その2ヵ月後、父である兵隊王が残したプロシア王国の軍を率いたフリードリヒ2世は、突如としてハプスブルク家支配下のシュレジェン地方に侵入。オーストリア継承戦争を惹き起こす。かくして彼とハプスブルク家の継承者マリア・テレジアとは永く対立する関係になるわけだ。

マリア・テレジアはプロイセン王国によって占領されたシュレジェン地方を取り戻すことを考えていた。その為に宿敵だったフランスとも手を結んだ。状況の悪化を懸念したフリードリヒ2世は、先手を打ってハプスブルク家の側に立っていたザクセン選帝侯領に攻め込んだ。

ドイツ東部の街ドレスデンにある聖十字架教会

それが西暦1756年に始まった七年戦争だった。プロシア王国軍はザクセン選帝侯領の首都ドレスデンに砲撃を加えた。その砲撃により、ひどく破壊されたのが聖十字架教会だった。(上の画像は現在のドレスデンの聖十字架教会。後に再建されたものだけどね。)

プロシア王国軍はザクセン選帝侯の古都であるマイセンも占領している。その際、名高いマイセン磁器の職人たちを連れ去り、ベルリンで磁器生産を始めている。

その後のフリードリヒ2世

オーストリア継承戦争に続き、七年戦争の危機を乗り切ったフリードリヒ2世はシュレジェン領有を確保することができた。更には西暦1772年に第1回ポーランド分割にも参加している。その後は軍事・外交においてハプスブルク家による反撃を抑えていたらしい。

かくして平和を保った彼は、サン・スーシ宮殿で過ごしていた。その宮殿には哲学者ヴォルテールなどを招いている。但し、彼の著作「反マキャベリ論」で説いた道徳的君主論とは正反対の野心に満ちた強引な戦争での領土拡大についてはヴォルテールは否定的な評価をしていたらしいけどね。

といはいえ、フリードリヒ2世は啓蒙専制君主らしい政策も実行している。宗教についての寛容、オペラ劇場の創設などの芸術振興、貧民救済、拷問廃止などなど。また気温が低く痩せた土地の多いプロシア王国でジャガイモ(下の画像)の栽培を広めたそうな。その為に自分でもジャガイモを食べて見せたそうな。おかげで彼の王国の人々の食生活が改善したらしい。

プロシア王フリードリヒ2世(大王)が栽培を広めたジャガイモ

フリードリヒ2世が晩年を過ごした宮殿の名であるサン・スーシとは、フランス語で「憂いが無い」という意味なんだそうな。故に彼の宮殿は無憂宮とも呼ばれる。でも、幸福な家庭生活を過ごすことの無かった彼にとって、サン・スーシ宮殿でひたすら愛犬と一緒にいたらしい。

更に彼は多くの病気に悩まされていた。通風、痔、リュウマチ、胃痛、心臓などを病んでいた。人類を呪われた存在だと考える憂いに満ちたフリードリヒ2世(大王)が無憂宮(サン・スーシ宮殿)で亡くなったのは西暦1786年のこと。74歳だった。プロシア王位を継承したのは、甥のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世だった。

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