ハプスブルク家の都ウィーン(オーストリア)ヨーロッパの歴史といえば、ハプスブルク家を抜きには語れないよね。そのハプスブルク家の都といえば、やはり現在はオーストリアの首都となっているウィーンだよね。そのウィーンといえば、「ウィーン少年合唱団」が頭に浮かぶかな。実はそのウィーン合唱団もハプスブルクに縁があるんだ。まずウィーン少年合唱団の本拠となっているのは、ウィーンのホーフブルク王宮の中にあるブルクカペレ(王宮礼拝堂)。そのホーフブルク王宮は、歴代のハプスブルク家の君主たちが暮らしていたところだね。 右にある画像は、そのブルクカペレでのミサを終えて出てきたウィーン少年合唱団のメンバーの様子なんだ。お母さんが迎えに来ているところが、まだまだ可愛いね。 ウィーン少年合唱団とハプスブルク家との間には、もう一つ縁がある。それは、西暦1498年にウィーン少年合唱団を設立したのは、皇帝マクシミリアン1世だということ。マクシミリアン1世といえば、神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)のお祖父さんだよね。 ハプスブルク家といえばシェーンブルン宮殿でも、ウィーンで見るハプスブルク家にゆかりの名所といえば、やはりシェーンブルン宮殿かな。(下の画像。)このシェーンブルン宮殿なんだけど、17世紀から歴代のハプスブルク家の支配者たちが増改築を繰り返して完成させた宮殿なんだ。でも、この宮殿と縁の深い人物といえば、なんといってもマリア・テレジアだね。 この宮殿をほぼ現在に見る形に仕上げたのはマリア・テレジアだし、そもそも宮殿の外壁の色も彼女の好みの色になっている。この薄い黄色のことを、マリア・テレジア・イエローというらしいよ。 ハプスブルク家の女帝マリア・テレジア正確に言えばマリア・テレジアは皇帝になっていないから「女帝」とは呼べないんだけど、その人生たるや「皇帝」にふさわしいから、ここでは「女帝」としておくね。彼女が生まれたのは西暦1717年のこと。そして、父である皇帝カール6世が亡くなり、ハプスブルク帝国の支配者となったのが西暦1740年、彼女が23歳のときのこと。 但し、即位直後からマリア・テレジアは苦労のしっぱなしだったんだ。即位の年にはフリードリヒ大王(2世)に率いられたプロシア軍がシレジア地方に攻め込み、オーストリア継承戦争が起こった。結局、シレジア地方はプロシア王国に奪われちゃったけど、マリア・テレジアの夫であるフランツ・シュテファンに神聖ローマ帝国の皇帝位が与えられ、第一ラウンドは終了したわけだ。 ところが西暦1756年、再びプロシアとオーストリアとの間に戦争(「七年戦争」)が起こった。結局は前の戦争でプロシアに奪われたシレジアを奪還することは出来なかったけど、今度の戦争ではオーストリアも善戦し、フリードリヒ大王を窮地に追い詰めるところまで行ったんだ。 というのも、宿敵フランスとオーストリアが同盟(これを「外交革命」という)したのが効を奏したからなんだ。でも、その外交革命の際にフランスのルイ16世に嫁いだマリア・テレジアの娘マリー・アントワネットは、フランス革命の際に処刑されちゃったんだよね。 話をマリア・テレジアに戻す。彼女とプロシア王国のフリードリヒ大王との戦いは、まだ終わらないんだ。西暦1778年、今度はバイエルン継承戦争でプロシアとオーストリアの軍が戦いを交えたんだ。 でも、西暦1780年にハプスブルク家の女帝マリア・テレジアが亡くなり、フリードリヒ大王との長年の戦いは幕を閉じたんだ。そして、彼女の後を追ったわけじゃないだろうけど、宿敵フリードリヒ大王も西暦1786年に亡くなっている。 その後のシェーンブルン宮殿女帝マリア・テレジアが亡くなった後も、ウィーンのシェーンブルン宮殿は歴史の舞台であり続け、様々なドラマがそこで演じられたんだ。(下の画像はシェーンブルン宮殿の絵葉書。内部ではカメラ使用不可。)西暦1805年と1809年には、ナポレオンがシェーンブルン宮殿に司令部を置いた。1814年からはここでウィーン会議が開かれ、会議が踊っただか踊らなかっただか。 西暦1832年にはナポレオンとオーストリア皇女マリー・ルイーズとの間に生まれたライヒシュタット公ナポレオン2世が、このシェーンブルン宮殿で亡くなっているんだ。 余談ながら、ナポレオンが没落する前、このナポレオン2世はローマ王とも呼ばれていたみたい。今のイタリアの首都ローマの王がやがて皇帝の位を継承するというナポレオンの期待が込められていたんだろうね。しかし、そのナポレオン2世は若くして亡くなっちゃったんだけど。
All rights reserved 管理・運営 あちこち三昧株式会社 このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 |