トーマス教会のカントール(音楽監督)となったバッハ西暦1723年、ヨハン・セバスチャン・バッハ(J・S・バッハ、あるいは大バッハ)は旧東ドイツの街ライプツィヒにあるトーマス教会のカントール(音楽監督)に就任した。(下の画像はライプツィヒのトーマス教会の前に立つバッハの像。)
バッハは西暦1685年にやはり音楽家だったヨハン・アンブロジウス・バッハの息子としてアイゼナハで生まれている。彼は18歳でヴァイマルの楽団にヴァイオリンやオルガンの演奏家として雇われている。続いて彼はアルンシュタットの教会のオルガニストになった。
ライプツィヒの音楽の指導者となったバッハそんなバッハが西暦1723年に訪れたのが、ライプツィヒにある市役所だった。そこで彼はトーマス教会のカントール(音楽監督)に就任するという契約書にサインしたんだそうな。彼が就任するポストは、西暦1212年創設というトーマス教会少年合唱団の指導者でもあり、ライプツィヒの街全体の音楽に関する指導者でもあったんだそうな。
ちなみに、バッハが契約書にサインをした当時の市役所は、今でも旧市役所(上の画像)としてライプツィヒのマルクト広場に面して立っている。西暦1557年に完成したという歴史ある建物なんだそうな。
バッハの代表的な作品の初演が行われたトーマス教会かくしてライプツィヒのトーマス教会のカントール(音楽監督)となったバッハは、ここで多くの作品を発表している。「マタイ受難曲」や「ヨハネ受難曲」など彼の代表的な作品の初演は、このトーマス教会で演奏されたそうな。(下の画像はトーマス教会の祭壇。)
但し、バッハといえども宮仕えの苦労はあったみたい。彼はルター派の家に生まれたんだけど、ザクセン選帝侯がカトリックに改宗したこともあって、カトリックのミサ曲をも作曲している。その甲斐もあり、西暦1736年にはザクセン選帝侯の宮廷音楽家をも兼務しているんだけどね。
バロック音楽の完成者 大バッハそんな大バッハもやがて脳卒中に襲われ、更には視力の低下にも悩まされた。かくして西暦1750年、65歳の大バッハが亡くなっている。その晩年において、人々は彼の音楽を時代遅れだと評価していたらしい。
大バッハがバロック音楽の完成者として評価されるようになったのは、彼の死後のことだったそうな。(上の画像は歴史ある出版の街とされるライプツィヒで買った彼の伝記のミニチュア本。ドイツ語で書いてあるから、私には読めないんだけどね。)
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