エジプトの実質的な独立を獲得した太守ムハンマド・アリーここに1枚のエジプトの紙幣がある。アラビア文字で書いてあるから読めないけど、20エジプト・ポンド紙幣なんだ。この紙幣の中央に描かれているのは、カイロにあるムハンマド・アリー・モスク。このページの主役であるムハンマド・アリーが西暦1830年から建設を始めたモスクだね。この太守ムハンマド・アリーは、オスマン・トルコの支配下にあったエジプトに実質的な独立をもたらし、新しい王朝の初代となった人物だった。
上の紙幣に描かれているモスクには、ミナレット(尖塔)が2本あるよね。これはオスマン・トルコのスルタンに対する挑戦を意味するらしい。というのも、当時はスルタンのみが2本のミナレットのあるモスクを建てることが許されていたんだそうな。
兵士からエジプトの支配者となったムハンマド・アリー後にエジプトの支配者となったムハンマド・アリーなんだけど、西暦1769年にオスマン・トルコ支配下のバルカン半島に生まれている。おそらくはアルバニア系とされてはいるものの、トルコ系あるいはクルド系との説もある。フランス革命から間も無い西暦1798年、ナポレオンの率いるフランス軍がエジプト遠征を行った。対して、当時のエジプトを領有していたオスマン・トルコが軍を送り込んだ。そのオスマン・トルコ軍の兵士の中にムハンマド・アリーがいた。彼は数百人の非正規兵部隊の幹部だった。 やがてエジプトに侵攻したフランス軍はイギリス軍に敗れ、そのイギリス軍も西暦1803年に撤退している。残されたエジプトは様々な勢力が争いを続ける混乱状態となった。その争いの中で頭角を現したムハンマド・アリーは、西暦1805年にはエジプト総督となっている。 やがてエジプト全土に及ぶ支配を確立した太守ムハンマド・アリーは、オスマン・トルコの命を受けてアラビア半島に軍を派遣している。更には徴兵制を実施し、軍の近代化も進めている。他方でエジプトの産業や行政の近代化にも着手していた。
西暦1821年、オスマン・トルコの支配下にあったギリシャが独立戦争を始めた。オスマン・トルコはムハンマド・アリーにシリア総督の地位と引き換えに軍の派遣を命じ、エジプト軍がギリシャに送り込まれた。エジプト軍は各地で独立勢力を討ち破り、クレタ島やアテネなどを攻略している。(上の画像はエーゲ海に浮かぶクレタ島にある名高いクノッソス宮殿の遺跡。)
エジプトの独立とイギリスギリシャの独立を阻止できなかったオスマン・トルコは、ムハンマド・アリーに約束していたシリア総督の地位を認めなかった。そして西暦1831年、ムハンマド・アリーはエジプト軍をシリアに侵攻させた。勝ち進んだエジプト軍はアナトリアにまで進んだ。しかし、ここでもロシア・イギリス・フランスが介入し、西暦1833年に休戦協定が結ばれた。その結果、エジプトはシリアやクレタ島などを獲得している。勢力を拡大したムハンマド・アリー支配下のエジプトだったが、その後は中近東のあちこちでイギリスと利害が衝突するようになっていった。他方のイギリスはエジプトの勢力拡大に危険を感じ、対するオスマン・トルコに肩入れする姿勢を見せていた。西暦1838年にはムハンマド・アリーはエジプトの独立を宣言したものの、列強の反発を受けて撤回を余儀なくされている。(下の画像はロンドンにあるイギリス外務省。)
西暦1839年、オスマン・トルコ軍がエジプト支配下のシリアに侵攻した。しかし、オスマン・トルコ軍はエジプト軍に大敗を喫した。西暦1840年、イギリス・ロシアなどの列強が介入、イギリス軍などがシリアに上陸し、やがてムハンマド・アリーはイギリスに屈服している。
ムハンマド・アリーの死かくしてエジプトに独立をもたらし、自らの王朝の初代君主となったムハンマド・アリーではあったけれども、彼の野望は実現されることなく消え去ったわけだ。そんな彼は、西暦1848年に総督の地位を息子に引き継いでいる。
ムハンマド・アリーが亡くなったのは、その翌年のことだった。彼の遺骸はカイロに建てられたムハンマド・アリー・モスク(その内部の様子が上の画像)に葬られたらしい。ちなみに、彼の子孫は西暦1953年までエジプトを支配したそうな。
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