ナポレオンに屈服したヴェネツィアフランス革命の進展において頭角を現したナポレオンは、西暦1796年にはイタリアに遠征していた。(その際にミラノにおいてダヴィンチの「最後の晩餐」を見たとか。)そして西暦1797年5月、破竹の勢いのナポレオンが迫ってきたのが、かつて地中海を舞台に海上帝国を築いた水の都ヴェネツィアだった。対するヴェネツィアの議会は、圧倒的な多数を以てナポレオンに屈服することを決めた。ここに歴史あるヴェネツィア共和国は滅亡したんだね。
衰退の道を歩んでいたヴェネツィアは、かつての力を既に失っていたわけだ。(上の画像は海上帝国ヴェネツィアの支配の中心だったドージェ宮殿を海に浮かぶゴンドラから眺めた様子。)
地中海屈指の海軍力を誇ったヴェネツィアフン族などの蛮族の侵入による混乱を逃れた人々がラグーンの浅瀬や島々に築いたヴェネツィアは、当初は東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の支配下にあった。しかし、やがてヴェネツィアは独立し、地中海屈指の海軍力を以て台頭していく。11世紀に始まった十字軍においてもヴェネツィアは海軍力を以て貢献し、更には十字軍によって占領された東方との貿易においても重要な役割を果たしている。
更には第4回十字軍においてはヴェネツィアは兵士たちの輸送を一手に担っている。しかし、その第4回十字軍は西暦1204年にビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを攻略し、ラテン帝国を成立させている。その攻略の際にコンスタンティノープルの競馬場から持ち去られたのが、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院を飾る4頭の馬の像(上の画像)だった。
海上帝国を築いたヴェネツィア強大な海軍力と商船隊を持つヴェネツィアは、アドリア海東岸やエーゲ海の島々にも支配地を獲得していった。彼らはあちこちに港と城砦を持ち、そのネットワークの上に海上帝国を築いたわけだ。(下の画像は彼らの支配下にあったクレタ島のクノッソス宮殿の遺跡。)
しかし、西暦1453年にビザンティン帝国の都コンスタンティノープルを攻略したオスマン・トルコは、更に勢力を拡大させ続け、ヴェネツィアの支配地を奪い取っていった。西暦1470年にはネグロポンテが奪われ、西暦1571年にはキプロス島を、西暦1669年にはエーゲ海の拠点クレタ島をも失っている。島々のみならず制海権を失い、更にはアドリア海沿岸の領土をも蚕食されていった。
ヴェネツィアの落日そんな落ち目のヴェネツィアの落日を決定づけたのが、このページの冒頭に書いたナポレオンだった。彼はサン・マルコ寺院を飾っていた4頭の馬の像(アレクサンダー大王に使えた彫刻家リュシッポスの作とされる)をパリに持ち帰り、ルーブル美術館近くにあるカルーゼル凱旋門(下の画像)に据えたんだそうな。
やがて皇帝ナポレオンは没落し、4頭の馬の像は西暦1815年にヴェネツィアのサン・マルコ寺院に帰ってきた。でも、ナポレオンからオーストリアに譲渡されていたヴェネツィアの独立は回復されなかった。
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