イタリアのトスカナ地方にある商人の街シエナ西暦1861年に近代統一イタリア王国が成立する前のイタリアは、海の都ヴェネツィア、ミラノ公国、ナポリ王国、ローマを中心とする教皇領、そしてトスカナ大公国などに分裂していたんだ。トスカナ大公国の中心はフィレンツェなんだけど、16世紀になるまでフィレンツェのライバルとしてトスカナ地方の覇権を争っていたのが、商人の街シエナだった。
そんなシエナとフィレンツェの位置関係については上の略図を見てほしいんだけど、両者はほんの 50kmほどしか離れていないんだそうな。(ついでながら、イタリアを代表する赤ワイン「キャンティ」の生産地域は、シエナとフィレンツェの間に広がっている。)
シエナに完成したプブリコ宮殿そんなトスカナ地方の街シエナは13世紀から14世紀にかけて全盛を極めたとされている。イングランド南部のカンタベリーからローマに至るフランチジェーナ街道がシエナを経由していたこともあり、多くの巡礼や商人たちがこの街にやって来たらしい。そんな全盛期のシエナにおいて西暦1297年に着工され、西暦1305年に完成したのがプブリコ宮殿(下の画像)だった。
そんなプブリコ宮殿の中で見ることの出来るのが、当時のシエナ派の代表的な画家アンブロージョ・ロレンツェッティによる「善政の効果」や「悪政の寓意」などのフレスコ画なんだ。
プブリコ宮殿の上にそびえるマンジャの塔プブリコ宮殿が完成した後、その宮殿の上に築かれたのが、高さ 88メートルというマンジャの塔(下の画像)だった。
シエナを見渡すことのできるマンジャの塔の完成は西暦1344年のこと。まさにシエナの全盛期の象徴ともいうべき建築物だったのかもしれないね。でも、そんなシエナに苦しみの時が近づいていた。
人口の半分を失って衰退したシエナフランス南部プロヴァンス地方の港町マルセイユに黒死病(ペスト)が上陸したのは西暦1347年のことだった。やがて病魔はイタリアを襲い、西暦1348年にはシエナは人口の半分を失ったらしい。上に書いたようにプブリコ宮殿にフレスコ画を描いたシエナ派の画家アンブロージョ・ロレンツェッティもその年にペストによって亡くなっている。
上の画像はシエナの中心であるカンポ広場に面したプブリコ宮殿の1階部分なんだけど、中央やや左に見える白い大理石の開廊(「広場の礼拝堂」と呼ばれている)は、黒死病(ペスト)を生き延びた人々が西暦1352年にプブリコ宮殿に建て増した部分なんだそうな。
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