ペルガモン王国の栄華今のトルコ領小アジアの西岸近くにペルガモンという街があった。その街を首都として栄えたのが古代ペルガモン王国だった。このページの主役であるエウメネス1世は、紀元前263年に王として即位し、王国をセレウコス朝シリアの支配から独立させた人物だった。
そんなペルガモン王国の栄華の名残りを見せてくれるのが、上の画像にあるゼウスの大祭壇かな。19世紀後半にドイツ人カール・フーマンによって発掘され、ドイツの首都ベルリンのペルガモン博物館に展示されている。
エウメネス1世とペルガモン王国の独立古代史の英雄アレクサンダー大王が亡くなった後、彼の部下の将軍たちが大王の支配した土地を巡って争っていた。そんな将軍の一人であるリュシマコスは、ペルガモンの街の統治をフィレタイロスに委ねた。そのフィレタイロスがペルガモン王国の初代の王とされる。紀元前263年、フィレタイロスが亡くなり、その甥にあたるエウメネス1世が王位を継承した。エウメネス1世はエジプトを支配していたプトレマイオス朝と連携し、セレウコス朝シリアとの戦いに勝ち、ペルガモン王国の独立を獲得したわけだ。
そのプトレマイオス朝もアレクサンダー大王の将軍の一人が起こした王朝であり、同じく大王の将軍の王朝であるアンティゴノス朝マケドニアから奪い取ったキプロス島を支配していたらしい。(上の画像はキプロス島に残るプトレマイオス朝の王族の墓。)
ペルガモン王国と古代ローマ紀元前241年にエウメネス1世が亡くなると、彼の従兄弟の子にあたるアッタロス1世が王となった。彼も引き続きセレウコス朝シリアと戦い、王国の領土を保っている。そんなアッタロス1世は台頭してきた古代ローマと同盟していた。その古代ローマがアンティゴノス朝マケドニアと戦った際には、ペルガモン王国はロードスと連携してマケドニアと戦っている。(下の画像はエーゲ海に浮かぶロードス島の北岸から眺めた小アジアの山々。ロードス島から小アジアまでは 20kmもないらしい。)
紀元前197年にはアッタロス1世の子のエウメネス2世が王位を継承した。彼の代においてもペルガモン王国と古代ローマとの同盟は続き、古代ローマがセレウコス朝シリアと戦った際にも、古代ローマと共に戦っている。このページの冒頭の画像にあるゼウスの大祭壇を築いたのは、このエウメネス2世だった。紀元前2世紀の前半とされている。
その後のゼウスの大祭壇ペルガモンの街は古代ローマの属州アジアの首都とされた。しかし、その地位はエーゲ海に面する海辺の街エフェソスに移った。西暦262年には大地震によって壊滅し、更にはゴート族の略奪をも受けている。7世紀にはササン朝ペルシア軍、8世紀にはイスラム教徒の軍が侵入した。11世紀にはセルジューク・トルコ、14世紀にはオスマン・トルコの支配下に入っている。かくして栄華を誇ったペルガモンの街も衰退していったわけだ。いつしか忘れられていたペルガモンをドイツ人カール・フーマンが訪れたのは西暦1864年のことだった。そこで彼はゼウスの大祭壇を含む古代の遺跡を発見した。その後、オスマン・トルコのスルタンの許しを得た彼は、西暦1878年に発掘を始めた。 出土品はスルタンの許可を得てベルリンへと運ばれた。ゼウスの大祭壇をはじめとする貴重な発掘品を展示する為に建設されたのが、西暦1930年に完成したペルガモン博物館だった。(下の画像はペルガモン博物館に展示されているゼウスの大祭壇の彫刻やレリーフなど。)
ところが、第二次世界大戦が始まった。空襲を避けるためにゼウスの大祭壇はベルリン郊外に疎開を余儀なくされた。そして戦後、ゼウスの大祭壇は戦利品としてソ連軍が持ち帰ってしまった。それが返還されたのは西暦1959年のことだった。
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