古代のパリ、ケルト系パリシイ族の都ルテティアフランスの首都パリと言えば、皆さんの頭に浮かぶのは、・・・ 世界をリードするファッション、美味しい料理とワイン、一時はヨーロッパを征服する勢いを示した皇帝ナポレオン、フランス革命で処刑されたルイ16世とマリー・アントワネット ・・・もちろん、どれもその通りだね。フランスの首都パリには様々なイメージがある。でも、このページで取り上げたいのは、もっと昔の、つまり古代あるいは先史時代にまで遡るパリのことなんだ。(上の画像は夕暮れに沈みつつあるセーヌ川とシテ島の風景。シテ島にあるノートルダム大聖堂のシルエットも見えるね。)
先史時代とケルト系パリシイ族のパリ紀元前4千年から3千年頃、つまり新石器時代のパリにも人間は住み着いていたんだそうな。彼らは、パリの周辺で牧畜や農業を営んでいた。しかも、セーヌ川の水運を利用して、各地と交易も行っていたらしい。今でもセーヌ川付近からは中央ヨーロッパ産と思われる石の斧が出土するんだそうな。その後、ガリア(今のフランス)には、ケルト系の人々が広がっていった。現在のパリの中心にあるシテ島には、紀元前3世紀半ばにケルト系のパリシイ族が定住を始めたらしい。彼らはシテ島にオッピドム(防塁)を築き、やがてそこはパリシイ族の都ルテティアとなったんだ。
古代ローマ帝国によるルテティア(パリ)征服その後、ガリア(今のフランス)には、今のイタリアの首都ローマから発した古代ローマ帝国が進出してきた。ルテティア(今のパリ)付近に住んでいたケルト系パリシイ族の人々は、古代ローマ帝国とも友好的な関係にあったらしい。ところが、ガリアのケルト人たちが古代ローマ帝国に対して反旗を翻したんだ。その指導者はガリアの英雄ウェルキンゲトリクス。パリシイ族の人々もウェルキンゲトリクスと共に古代ローマ帝国との戦いを始めた。 しかし、古代ローマ帝国の英雄カエサルの部将(正確には総督代理らしい)ラビエヌスは、大軍をもってルテティアに攻撃を仕掛けた。ケルトの戦士たちの戦いもむなしく、やがてルテティアの街(今のパリ)は古代ローマ帝国の軍団によって占領されてしまった。それが紀元前52年のこと。
戦禍によって廃墟となったケルト系パリシイ族の都ルテティア。しかし、古代ローマ人はシテ島を中心に新しい道路や建物を築いていったわけだ。上の画像は、現在のフランスの首都パリにあるクリュニー中世美術館(中世のタペストリー「貴婦人と一角獣」が名高い)の中にある古代ローマ帝国時代の建物の遺構なんだ。
古代ローマ帝国時代のパリ、それから ・・・ルテティア(今のパリ)を支配した古代ローマ帝国は、セーヌ川に浮かぶシテ島を中心として橋をかけ、いくつもの街道を整備した。もちろん、セーヌ川の流れは変わらない。そんな街道やセーヌ川の交差するパリは、交易の中心として発展していったわけだ。
そんなパリを舞台に、様々な歴史のドラマが展開されていくわけだね。ちなみに、上の画像は朝日に輝くセーヌ川。パリを観光するならば、早起きして見に行ってね。朝のパリの散歩も心地良いし。
古代ローマ帝国によるガリア(フランス)征服とブリタニア(イギリス)余談なんだけれども、ガリアでケルト系の人々と戦っていた古代ローマ帝国の人々は、カエサル(シーザー)の指揮下にブリタニア(イギリス)にも遠征したらしい。英仏海峡を挟むガリアとブリタニアのケルト系の人々の連携を裂きたかったんだそうな。但し、その際のブリタニア遠征は一時的なもので、古代ローマ帝国の兵士たちはブリタニアに駐屯したわけじゃない。古代ローマ帝国がブリタニアを支配下に置いたのは、西暦43年にブリタニアに兵士たちを送り込み、ロンディニウム(今のイギリスの首都ロンドン)を建設してからだね。 古代の街ルテティアがフランスの首都パリに発展していく上では、古代ローマ帝国が築いた橋や道と水運を担ったセーヌ川が大きな役割を発揮したんだけど、同じことがロンドンの橋や道とテムズ川にも言えるらしいよ。
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