イタリアの古都ラヴェンナに残る皇女ガッラ・プラキディアの廟西暦450年、西ローマ帝国の皇女ガッラ・プラキディアが亡くなった。下の画像は古都ラヴェンナに残るガッラ・プラキディア廟(下の画像)なんだけど、皇女が自ら建てさせたものなんだそうな。
但し、亡くなった彼女が葬られたのは上の画像の廟ではなく、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の脇にある墓地だったとも言われている。
連れ去られた皇女ガッラ・プラキディア皇女ガッラ・プラキディアが生まれたのは西暦392年のこと。でも、2歳の時に母が亡くなり、3歳の時には父が亡くなっている。父の死後、西ローマ帝国の皇帝となったのは異母兄のホノリウスだったけれども、その時点で彼も10歳の子供に過ぎなかった。そんなわけで、皇女は実質的に国政を取り仕切っていた軍司令官のスティリコ夫妻に育てられたらしい。ちなみに、スティリコの奥さんと皇女ガッラ・プラキディアとは従姉妹の関係にあったそうな。やがて皇女はスティリコ夫妻の息子のエウケリウスと婚約している。 ところが、皇女の異母兄の皇帝ホノリウスが成長するにつれて、自分の手に実権を握りたくなる。そして西暦408年、反逆の汚名の下にスティリコは逮捕され、処刑された。その息子のエウケリウスはローマに逃れたものの捕えられ、やはり処刑されている。こうして皇女ガッラ・プラキディアは育ての親と婚約者を失ったわけだ。(下の画像は高台から眺めたローマ。)
ところが、皇女ガッラ・プラキディアの悲劇はこれで終わったわけじゃない。むしろこれから始まると言うべきかもしれない。西ローマ帝国の統治を取り仕切り、蛮族出身の兵士たちからの人望を集めていた軍司令官スティリコが処刑されたことで、蛮族出身の多くの兵士たちが西ゴート族の王アラリック1世の下に走っていったそうな。
皇女ガッラ・プラキディアの結婚、死別、結婚、死別、・・・連れ去られた皇女ガッラ・プラキディアは、西ゴート族の王の弟アタウルフと結婚している。夫のアタウルフは西ゴート族の王となっていた。西暦414年、皇女とアタウルフとの間には男の子が生まれた。でも、男の子は翌年には亡くなり、バルセロナ(今のスペインのカタルーニャ地方の街)に葬られたらしい。(下の画像はバルセロナの大聖堂の壁に残る古代ローマ帝国時代の建物の遺構。)
幼い息子を失ったその年の夏、夫である西ゴート族の王アタウルフが殺害された。やがて西ローマ帝国と西ゴート族との間に和約が成立し、その条項によって皇女ガッラ・プラキディアのイタリアへの帰国が認めらた。
ガッラ・プラキディア廟に見るモザイク画そんな皇女ガッラ・プラキディアが亡くなったのは西暦450年のこと。悲劇の皇女にとって幸いだったのは、アッティラに率いられたフン族のイタリア侵入を見なくて済んだことだと言われている。しかも、西ローマ帝国の滅亡は彼女の死から26年後のことだった。
そんな彼女が亡くなる前に建てさせていたガッラ・プラキディア廟には、上の画像にあるモザイク画「水盤から水を飲む鳩」がある。鳩は魂を象徴し、水は癒しと平和を示すらしい。つまり、このモザイク画は永遠の命の水で魂の渇きを癒すことを示しているんだそうな。晩年の皇女ガッラ・プラキディアは信仰の生活を過ごしていたらしい。
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