ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1541年、ドイツの名門ヴェッティン家アルブレヒト系のモーリッツがザクセン公となった。後に選帝侯の位をも得る。


ヴェッティン家のザクセン公モーリッツ

ドイツでも由緒ある貴族の家系であるヴェッティン家のアルブレヒト系ザクセン公家に、モーリッツが生まれたのは西暦1521年のことだった。父親であるハインリヒ4世は西暦1536年にルター派に改宗したんだけど、そのハインリヒ4世が西暦1539年にザクセン公となったことから、ザクセン公国全体がルター派に従うようになったらしい。

旧東ドイツの街ドレスデンのルター派の信仰の中心となっている十字架教会

そんなハインリヒ4世の息子モーリッツもルター派を信仰していた。そのモーリッツが、亡父の後継者としてザクセン公となったのは西暦1541年のことだった。(上の画像はザクセンの古都ドレスデンにおいてルター派信仰の中心となっている十字架教会。)

ハプスブルク家の皇帝カール5世とともに

ザクセン公となったモーリッツはルター派を信仰してはいたけれども、カトリックに固執するハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝カール5世の下であちこちの戦いに参加した。例えば、西暦1542年にはスレイマン大帝の支配するオスマン・トルコとの戦いに参加している。

更には、西暦1544年にはフランス王フランソワ1世との戦いにも参加している。フランソワ1世は皇帝カール5世の宿敵となっていた人物だった。ちなみに、下の画像の左側はフランソワ1世の紋章のサラマンダー(火を吐くトカゲ)。フランスのロワール川のほとりにあるブロワ城で見たもの。

フランスのロワール川のほとりにあるブロワ城で見たフランソワ1世の紋章(左側)

しかしながら、モーリッツは自分の支配下にあるザクセン公国においては、カトリックの教会や修道院の財産の没収などを行っていたらしい。イングランド王ヘンリー8世も同じようなことをしていたことで名高いよね。

ザクセン選帝侯となったモーリッツ

その頃のドイツでは、ルター派などのプロテスタントを支持する諸侯や諸都市が、カトリックを擁護する皇帝カール5世に対抗するシュマルカルデン同盟を結んでいた。その指導者の一人は、モーリッツと同じくヴェッティン家の出身のザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒだった。

但し、ヴェッティン家は西暦1485年に結んだライプツィヒの同意によって、二つの系統に分裂していた。ヨハン・フリードリヒはエルネスティン系、モーリッツはアルブレヒト系に属していた。しかも、二人は又従兄弟の関係にはあったけれども、若い頃から不仲だったそうな。

加えて、皇帝カール5世はザクセン選帝侯位を与えることを見返りとして、プロテスタントたちのシュマルカルデン同盟と戦うことをモーリッツに求めたらしい。かくしてルター派を信仰していながらモーリッツは、プロテスタントに対する皇帝カール5世の軍に加わったわけだ。

シュマルカルデン戦争においてモーリッツは活躍したらしい。そして西暦1547年のミュールベルクの戦いの結果はプロテスタントたちの大敗となり、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒは捕虜となってしまった。彼は処刑を逃れる為に選帝侯位と広大な領地を放棄した。

ドイツ南部の街アウグスブルクの市庁舎は17世紀前半の建物

皇帝カール5世は約束に従い、ヨハン・フリードリヒが放棄したザクセン選帝侯の位と領地の大部分をモーリッツに与えたわけだ。選帝侯位の正式な授与は西暦1548年にアウグスブルクの国会において行われた。上の画像はアウグスブルクの市庁舎なんだけど、描かれている黒い双頭の鷲は神聖ローマ帝国の自由都市であることを示しているらしい。

モーリッツがザクセン公に加えて選帝侯となり、しかも広大な領地を得たことで、彼の属するアルブレヒト系がヴェッティン家の主流となった。但し、ルター派を信仰しながらもカトリックを擁護する皇帝の側に立って戦ったモーリッツは、「マイセンのユダ」と呼ばれるようになってしまった。(マイセンはヴェッティン家の歴史ある本拠地だった。)

他方、ヨハン・フリードリヒの属するエルネスティン系は領地も縮小し、更にはいくつもの諸侯に分裂し、力を失ってしまったそうな。

その後のザクセン選帝侯モーリッツ

シュマルカルデン戦争に勝利を得た皇帝カール5世は、神聖ローマ帝国においてカトリック的な政策をより強く進めようとした。それがルター派を信仰していたザクセン選帝侯モーリッツを離反させることとなった。

西暦1552年、ザクセン選帝侯モーリッツはフランス王アンリ2世とシャンボール条約を結んだ。皇帝カール5世に対して共に戦おうというわけだ。ちなみに、アンリ2世はカトリックであり、それがルター派のモーリッツと同盟して、カトリックの皇帝と戦うということだね。ややこしい話だ。(下の画像はフランスの首都パリの郊外にあるサン・ドニ大聖堂で見たアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチの像。)

フランスの首都パリのサン・ドニ大聖堂で見たアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチの像

反皇帝軍の攻撃は成功し、カール5世は一時期はアルプスを越えて逃げ出すほどだったとか。そこでモーリッツはフランス王アンリ2世との同盟を放棄し、皇帝側とパッサウ条約を結んでいる。

しかし、ドイツにはパッサウ条約に反対する諸侯もいた。そんな諸侯の反乱を西暦1553年に鎮圧した際にもモーリッツは活躍している。その勝ち戦において彼は銃撃を受け、間もなく野営地で亡くなった。32歳だった。彼の銃創は後ろから撃たれたものだった。「マイセンのユダ」に対する天罰 ・・・ だったりして ・・・ 。

モーリッツには後継者たる男子がいなかった。というわけで、弟のアウグストがザクセン選帝侯・公となったらしい。かくして選帝侯位を得てヴェッティン家の主流となったアルブレヒト系は、西暦1806年にはザクセン王位をも得ている。しかし、第1次世界大戦末期のドイツ革命においてザクセン王国は崩壊し、ヴェッティン家も王位を失ったんだ。

他方、ザクセン選帝侯位を奪われ、弱小化し分裂したエルネスティン系なんだけど、その傍流としてザクセン・コーブルク・ゴータ家がある。その家に生まれたアルバート公が結婚したのが、イギリスのヴィクトリア女王だった。そのお二人の子孫であるウィンザー家こそが今のイギリス王家なんだよね。ヨーロッパの名家の栄枯盛衰はドラマティックで複雑だね。

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