軍事紛争における文化財の保護のための条約第二次世界大戦において、ナチス・ドイツ空軍のロンドン空襲(バトル・オブ・ブリテン)のたびにイギリス首相のチャーチルはセント・ポール大聖堂が無事かどうか心配したなんて話もある。幸いにロンドンのセント・ポール大聖堂は無事だった。でも、第二次世界大戦においては、人類の宝とすべき文化財の多くが破壊されてしまったよね。そんな反省の上にオランダのハーグにおいて「軍事紛争における文化財の保護のための条約」が採択されたのは、西暦1954年のことだった。
ちなみに、その「軍事紛争における文化財の保護のための条約」が採択されたオランダの街ハーグには、アメリカの大富豪カーネギーの寄付によって建設された平和宮(上の画像)がある。戦争の回避を目指して第一次世界大戦の前に建設されたもの。それでも悲惨な世界戦争が二度も起きてしまったんだけどね。
水没の危機に瀕した古代エジプトの大神殿貴重な文化財を破壊するのは戦争だけじゃないよね。例えば、経済開発によっても文化財が破壊されてしまうことがある。その代表的な例が、エジプトにおけるアスワン・ハイ・ダムの建設だった。エジプトの農業の侵攻の為には大きな役割を果たすであろうダムではある。でも、そのダムが作り出す巨大なダム湖によって、多くの貴重な文化財・文化遺産が湖底に水没する危険にさらされたんだ。
その代表が上の画像にあるアブ・シンベル大神殿だった。紀元前13世紀に古代エジプトを支配した王(ファラオ)ラムセス2世によって建設された巨大な神殿だった。
貴重な古代遺跡を守ったユネスコ他にも多くの古代遺跡がアスワン・ハイ・ダムの建設によって水没の危機に瀕したらしい。例えば古代ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスによって建設されたカラブシャ神殿(下の画像)にも水没の危険が迫っていた。
そんな危機的な状況から遺跡を救おうとしたのがユネスコだった。ユネスコは各国の協力を得て、湖底に沈もうとしていたいくつもの遺跡を安全な場所に移築する作業を始めたんだ。その結果、アブ・シンベル大神殿もカラブシャ神殿も水没を免れることができたというわけだ。
ユネスコ総会において採択された世界遺産条約他方でユネスコは文化財保護を趣旨とした条約の草案を作り始めた。そして西暦1972年、フランスの首都パリで行われたユネスコの総会で、文化遺産・自然遺産保護のための世界遺産条約が採択されたわけだ。その後、西暦1975年には世界遺産条約が発効し、西暦1977年には世界遺産リストを作成する第1回世界遺産委員会がパリで開催された。その翌年にアメリカのワシントンで開催された第2回世界遺産委員会では、最初の12件の世界遺産がリストに登録された。そして西暦2014年、世界遺産登録件数は1000件を突破したそうな。
ところで、上の画像なんだけど、ある意味では世界遺産条約の出発点がここにあるとも言えるのかも。この画像は、アブ・シンベル大神殿を移築するために作られた人工の岩山の内部(舞台裏)の様子なんだ。問題が全く無いとは言えない世界遺産制度なんだけど、貴重な文化財・遺跡を守る上で大きな貢献をしているのは間違いないよね。
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