ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1940年、ナチス・ドイツ空軍がイギリスの首都ロンドンを空襲し、バトル・オブ・ブリテンが始まった。


ナチス・ドイツ軍による西ヨーロッパ占領

西暦1939年、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まった。明けて西暦1940年4月から5月にかけて、ナチス・ドイツ軍はデンマーク、ノルウェーオランダベルギーを占領。

更に6月にはフランスの首都パリを占領し、フランスに講和条約を結ばせている。ここにナチス・ドイツ軍は西ヨーロッパの主要部分を占領したわけだ。

バトル・オブ・ブリテン (ロンドン空襲)
ナチス・ドイツ空軍とイギリスとの戦い

この時点では、ナチス・ドイツとソ連との間で結ばれた不可侵条約はまだ効力を保っていた。つまり、ナチス・ドイツによるヨーロッパ制覇を邪魔するものは、イギリスだけとなっていたんだ。

ヒトラーはイギリスを打ち破るために、イギリス本土上陸作戦(「アシカ作戦」)を考えていた。ところが、ナチス・ドイツの海軍力が不足していた。そこで上陸作戦を諦め、空軍力を以てイギリスに打撃を与える方針に切り替えたわけだ。

イギリスの首都ロンドンにある地下鉄のホームに向かうエスカレーター

そして西暦1940年7月10日、ナチス・ドイツ空軍によるロンドン空襲が始まった。イギリスの首都ロンドンの人々は、地下深く掘られたロンドンの地下鉄を防空壕として利用したんだそうな。(上の画像は地下鉄のホームに向かうエスカレーター。ロンドンの地下鉄は地下深くを走っているからね。)

長引いたロンドン空襲、パディントン駅から列車で疎開

ナチス・ドイツ空軍のゲーリング元帥は、イギリス空軍を壊滅させるのに4週間あれば十分だと考えていた。ところが、レーダーと無線を装備したイギリス空軍機はドイツ空軍相手に健闘を続けたんだ。

イギリスの首都ロンドンにあるパディントン駅

その結果、ナチス・ドイツ軍によるロンドン空襲は長引くこととなった。ロンドンの人々、特に子供や病人はイギリスの田舎、あるいはアメリカ・カナダに疎開していったんだそうな。(上の画像はイギリス北西部に疎開した人々が出発したロンドン市内のパディントン駅。ヒースロー空港に向かうヒースロー・エクスプレスはこのパディントン駅から出ている。)

生き延びたセント・ポール大聖堂(ロンドン、イギリス)

繰り返されるナチス・ドイツ軍のロンドン空襲に、当時のチャーチル首相はセント・ポール大聖堂が破壊されないかと心配したんだそうな。

イギリスの首都ロンドンを流れるテームズ川の南岸から見たセント・ポール大聖堂

翌年の西暦1941年5月、ナチス・ドイツ空軍によるロンドン空襲は終わりを告げた。チャーチル首相が心配していたセント・ポール大聖堂は無事に生き延びることが出来たんだ。(上の画像はテムズ川南岸から見るロンドン市街とセント・ポール大聖堂。)

ナチス・ドイツ軍によるソ連侵攻

西暦1941年5月に空軍力によるイギリス打倒を諦めたナチス・ドイツは、6月になってソ連に侵攻していった。あのナポレオンも敗れたロシアの冬将軍とナチス・ドイツ軍との戦いがどうなったかは、皆さんが御承知の通りだね。

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