マルタ島の聖エルモ城砦に対する空爆西暦1565年にオスマン・トルコの大軍が上陸し(グレート・シージ)、聖ヨハネ騎士団と戦いを繰り広げたマルタ島。その戦いにおける激戦の舞台の一つである聖エルモ城砦に空爆が加えられた。第二次世界大戦初期の西暦1940年6月11日のことだった。(下の画像はその聖エルモ城砦を聖アンジェロ城砦から眺めた様子。)
その頃、イタリア軍はリビアからイギリス支配下のエジプトを攻撃することを企画していた。その為には地中海における兵員と物資の補給ルートの確保が重要となる。その観点からはマルタ島に駐留するイギリス軍が大きな障害になっていたんだ。 地中海の十字路にあるマルタ島の良港グランド・ハーバーの入口を約する聖エルモ城砦に対して、空爆のみならず海からの攻撃も行われた。西暦1941年7月には、イタリア軍の艦艇による攻撃も行われている。 その後、北アフリカ戦線において、イタリア軍はイギリス軍を相手に苦戦をしていた。そんな北アフリカ戦線に登場したのが、ドイツ軍のアフリカ軍団の指揮官となったロンメル将軍(後に元帥)だった。彼はマルタ島の攻略なくしてきたアフリカ戦線での勝利はないと言っている。
イギリス軍が駐留する聖アンジェロ城砦話はフランス革命直後に遡る。エジプト遠征に向かうナポレオンが、西暦1798年に聖ヨハネ騎士団からマルタ島を奪い取ったんだ。ところが、フランスによる支配に反発したマルタ島の人々は、古都イムディナを拠点に反乱を起こした。そんなわけで西暦1800年にはマルタ島はイギリスの支配下に入っている。マルタ島に駐留するイギリス軍の拠点となったのが、グランド・ハーバーをはさんで首都ヴァレッタの対岸にあるせいアンジェロ城砦だった。(下の画像はヴァレッタのアッパー・バラッカ公園からグランド・ハーバーの向こうの聖アンジェロ城砦を眺めた様子。)
敵であるイギリス軍の拠点となれば、当然ながらドイツ軍・イタリア軍の重要な攻撃目標になるよね。西暦1940年に始まった空爆によって、この聖アンジェロ城砦には69発もの直撃弾をくらったらしい。
長い歴史を持つマルタ島のドックヤード(造船所)マルタ島には古代フェニキア人の頃まで遡る長い歴史のあるドック・ヤード(造船所)がある。それが下の画像なんだけど、画像の右手の奥に見えるクレーンのあたりがそうだね。首都ヴァレッタの近くにあるコスピークワと呼ばれる街にあるんだ。
マルタ島を支配下に置いたイギリス海軍はこのドックヤード(造船所)を使っていた。となれば当然ながらこのあたりもドイツ軍・イタリア軍の空爆の目標となったわけだ。 西暦1940年6月11日に始まったドイツ軍・イタリア軍の航空機による空爆は、およそ 2年半にわたって続き、空爆の回数は 3千回にも達したらしい。彼らは最終的には上陸作戦を行ってマルタ島を占領するつもりだった。 ところが西暦1942年11月にドイツ軍・イタリア軍は北アフリカ戦線で著しい劣勢に陥り、マルタ島に対する空爆・攻撃も尻すぼみになってしまった。以後は逆にマルタ島を拠点とするイギリス軍の航空機や艦船がドイツ軍・イタリア軍に対して攻勢に出たらしい。
マルタ島における戦後の復興ドイツ軍・イタリア軍による激しい空爆が繰り返され、マルタ島の多くの建物が破壊されてしまった。例えば下の画像はコスピークワに隣接するセングレアの街にある勝利の女神教会なんだけど、西暦1941年に破壊され、再建されたのは西暦1956年のことだった。
聖アンジェロ城砦のあるヴィットリオーザの街の告知教会も空爆によって破壊され、ようやく西暦1960年に再建されている。 他方、首都ヴァレッタにあったロイヤル・オペラ・ハウスも空襲によって破壊されている。でも、再建されることなく、今も廃墟のままになっているんだ。
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