ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1906年、現代絵画の父と称されるポスト印象派の画家ポール・セザンヌが、フランス南部プロヴァンスで死去。


フランス南部プロヴァンス地方の古都エクサン・プロヴァンス

画家ポール・セザンヌは西暦1839年にフランス南部プロヴァンス地方古都エクサン・プロヴァンス(通称エクス)で生まれている。父親はかなり裕福なビジネスマンだったみたい。おかげでセザンヌは生涯お金で苦労はしなかった。ゴッホから見ればうらやましい限りだったろうね。

フランス南部プロヴァンス地方の古都エクサン・プロヴァンス(エクス)のミラボー通り

上の画像は、エクサン・プロヴァンスにあるミラボー通りの風景なんだ。(ミラボーとは、フランス革命で名高いミラボー伯爵ガブリエル・オノレのこと。)

全くの余談だけど、ミラボー通りから脇道に入ると、ピーター・メールの「プロヴァンスの12ヵ月」に登場するレストラン「ギュー・エ・フィス」があったりするんだけどね。

プロヴァンスに戻ってきた画家ポール・セザンヌ

ビジネスマンで銀行を経営していた父親の意向に従って大学の法学部に進んだポール・セザンヌ。でも、結局は大学を中退し、西暦1861年にはフランスの首都パリに出て絵の勉強を始めた。(ちょうどフランス皇帝ナポレオン3世とセーヌ県知事オスマンがパリの改造を行っている時代で、モンマルトルの丘に画家たちが集まった頃だね。セザンヌもモンマルトルの丘の画家たちの一人だったりしたかも。)

パリ時代の画家ポール・セザンヌは、印象派の画家たちと交流するようになったらしい。特にピサロとは親しい関係だったみたい。でも、やがて印象派の人々とは、ピサロを除いて遠ざかっていったらしい。そして、西暦1870年代の終わりには、故郷のエクサン・プロヴァンスに戻っている。

フランス南部プロヴァンス地方のサント・ヴィクトワール山を遠望

そして、プロヴァンスに戻った画家ポール・セザンヌがよく描いたのが、上の画像(門柱の間からちょいとだけ見えている)にあるサント・ヴィクトワール山だった。ちなみに、セザンヌは、他にもリンゴや奥さんをよく描いていたらしいけどね。

印象派の画家たちとの関係が薄くなってしまったセザンヌだったけど、クロード・モネだけは別格だったみたい。西暦1894年には、パリの北、ノルマンディー地方のジヴェルニーにあるモネの家(アトリエ)に招かれている。その家に作った睡蓮の池は、モネの代表作「睡蓮」を描かせたんだ。

西暦1901年に画家セザンヌもエクサン・プロヴァンスの郊外にアトリエを買ったのは、上に書いたジヴェルニーにあるモネの家の影響かもしれないね。ちなみに、上にある画像のサント・ヴィクトワール山は、セザンヌのアトリエ近くから眺めたものなんだ。

画家セザンヌの作品「サント・ヴィクトワール山」

そんなわけで、今も残るセザンヌのアトリエから見えるサント・ヴィクトワール山を、彼はたくさんの作品に残した。

フランス南部プロヴァンス地方のサント・ヴィクトワール山を遠望

上の画像は、そんなセザンヌの作品「サント・ヴィクトワール山」の一つ。パリのオルセー美術館で見ることができる。もちろん、オルセー美術館には他にも多くのセザンヌの作品があるね。

セザンヌ 現代絵画の父、ポスト印象派の画家

そして西暦1906年、ポスト印象派の画家 ポール・セザンヌが、フランス南部プロヴァンス地方で亡くなった。

昔から、絵は物語や出来事を伝えるための手段だった。でも、絵画は何か他の目的の為の手段ではなくて絵画自体に価値があると考えたのが、画家ポール・セザンヌだったらしい。

そして、絵としての構図・タッチ・色彩などを重視した。そんなわけで彼は現代絵画の父と称されるようになった。(と、資料に書いてあった。)

そんな画家ポール・セザンヌの自画像はイギリスの首都ロンドンナショナル・ギャラリーで見ることができる。

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