マイセン辺境伯位を世襲したヴェッティン家ゲルマン人の一派であるザクセン人は、かつてユトランド半島の南部(ドイツ北部のデンマーク近くの地域)に住んでいた。その一部はやがてアングル人と共にイングランドに渡り、アングロ・サクソン人として彼の地を支配している。大陸に残ったザクセン人は南東に向かって広がり、今のドイツ南東部(旧東ドイツ南部)のザクセン州(その州都がドレスデン)にまで達したんだそうな。
そんな南東に向かったザクセン人の貴族として頭角を現した人々の中に、ヴェッティン家がいた。ヴェッティン家は11世紀からはマイセン辺境伯位を世襲するようになっていた。上の画像はそんなヴェッティン家とゆかりの深いアルブレヒト城。名高いマイセン磁器にも関係している。
ザクセン選帝侯となったヴェッティン家のフリードリヒ1世西暦1422年、ヴェッティン家に更なる上昇のチャンスが訪れた。アスカニエン家のザクセン選帝侯アルブレヒト3世が後嗣を残さずに亡くなった。その結果、ヴェッティン家のマイセン辺境伯フリードリヒ1世にザクセン選帝侯の位が与えられた。
ザクセン選帝侯位を得た時点でのヴェッティン家はマイセンを本拠としていた。しかし、西暦1464年にはドレスデンに本拠を移している。上の画像はドレスデンにあるレジデンツ城なんだけど、長くヴェッティン家の居城となっている。ちなみに、ドレスデンはザクセン公国、ザクセン王国、そして今のザクセン州に至るまで地域の中心都市となっている。
ザクセン王位を得たアルブレヒト系ヴェッティン家西暦1485年、ヴェッティン家の兄弟がライプツィヒの分割に同意した。兄のエルンストはザクセン選帝侯位とその領地を取り、弟のアルブレヒトはザクセン公位とその領地を確保した。以後、兄の家系であるエルネスティン系と、弟の家系であるアルブレヒト系の二系統に分かれることとなった。やがて宗教改革が始まると、ヴェッティン家は両系統共にプロテスタントを支持することになった。ところが弟脈アルブレヒト系のザクセン公モーリッツは、プロテスタントであるにもかかわらず、カトリックに固執する皇帝カール5世の側に立ってシュマルカルデン戦争に参加したんだ。 戦争に勝利したのは皇帝カール5世だった。その結果、皇帝に敵対した兄脈エルネスティン系のヨハン・フリードリヒは、ザクセン選帝侯位と多くの領地を奪われた。皇帝はその侯位と領地をザクセン公モーリッツに与えた。以後、弟脈アルブレヒト系ヴェッティン家がザクセン選帝侯・ザクセン公の両位と広大な領地を継承していったわけだ。 そして西暦1806年、フランス皇帝ナポレオンによってライン連邦が組織され、ハプスブルク家の皇帝が退位し、神聖ローマ帝国の解体が宣言された。他方でザクセン公国は王国に昇格し、アルブレヒト系ヴェッティン家はザクセン王の位を継承していくこととなったんだ。
そんなザクセン選帝侯・公・王を輩出したヴェッティン家の35人の君主たちを描いているのが、上の画像にある「君主の行列」なんだ。ドレスデンのツヴィンガー宮殿の厩舎中庭の外壁で見ることが出来る。高価なマイセン磁器を2万3千枚も使っているそうな。ちなみに、そのマイセン磁器を誕生させたザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世なんだけど、彼もアルブレヒト系ヴェッティン家の出身だった。
兄脈エルネスティン系ヴェッティン家のその後弟脈アルブレヒト系によってザクセン選帝侯位と多くの領地を奪われた兄脈エルネスティン系なんだけど、ヴェッティン家の主流の地位を失った上に、いくつもの中小の領邦に分裂していった。ところが、ヨーロッパ各地の王家と婚姻関係を結び、子孫を残している。
その代表的な存在がイギリスの王家だね。というのも、エルネスティン系ヴェッティン家の傍流であるザクセン・コーブルク・ゴータ家出身の人物がイギリスのヴィクトリア女王と結婚したアルバート公だった。(上の画像はイギリスの首都ロンドンにあるバッキンガム宮殿。ヴィクトリア女王は西暦1837年にこの宮殿に移り住んだ。)
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