百年戦争でイギリスと戦ったベルトラン・デュ・ゲクランベルトラン・デュ・ゲクランはフランス北西部のブルターニュ地方で西暦1320年に地方貴族の息子として生まれたらしい。若い頃にはブルターニュ公位の継承の戦いに加わっていたらしい。でも、やがてフランス王の軍に加わり、イギリスに対する百年戦争の戦士となっていったんだ。
百年戦争の戦場で頭角をあらわしたベルトラン・デュ・ゲクランは、西暦1357年にはフランス軍の重要拠点となっていたモン・サン・ミシェルの守備隊の隊長に抜擢されたらしい。(上の画像は今の世界遺産モン・サン・ミシェルの様子。)
ベルトラン・デュ・ゲクランのフランスでの戦いその後もフランス北部ノルマンディ地方(首都パリの北に広がる)を中心に百年戦争での戦いで貢献したデュ・ゲクランは、フランス軍の中で昇格を続け、活躍の場を広げていった。特にフランス王太子シャルル(後のフランス王シャルル5世)は彼の軍事的な能力を高く評価していたそうな。
やがて彼はノルマンディから更に広い範囲を担当する軍の指揮官になっていった。シャルトル・ブルーで名高いシャルトル大聖堂(上の画像)のあるシャルトルの街も彼の守備範囲に含まれたそうな。
スペインで戦ったデュ・ゲクラン百年戦争と飛ばれるけれども、戦いが百年間ずっと続いていたわけじゃない。時には火花散る戦いが続いても、時には静かな平和な時期もあったわけだ。そんな静かな時期には傭兵たちは食うに困る状況となり、フランス各地を荒らしまわったそうな。そんな食うに困った多くの傭兵たちを率いたベルトラン・デュ・ゲクランが西暦1366年に向かったのがカスティーリャ(今のスペインの一部)だった。当時のカスティーリャ王ペドロ1世とその異母兄エンリケ2世が、王位をめぐって内戦を始めたていたんだ。 ペドロ1世を支援したのはフランスの宿敵イギリスの黒太子エドワードだった。対するエンリケ2世を支援したのが、傭兵たちを率いたベルトラン・デュ・ゲクランだった。つまりは百年戦争の番外編、あるいは場外乱闘のようなものかな。 イギリスの黒太子エドワードの活躍もあって一時期はペドロ1世が盛り返した。でも、病を得た黒太子が帰国した後は、ベルトラン・デュ・ゲクランに支えられたエンリケ2世がカスティーリャ王となったんだ。
エンリケ2世は世界遺産セゴビアのアルカサル(城)を改修したんだけど、上の画像はそのセゴビアにある水道橋の様子。フランス南部プロヴァンス地方にあるポン・デュ・ガールと同じく古代ローマ帝国時代のものなんだけど、エンリケ2世の側で戦ったデュ・ゲクランもこの風景を見たかも。
サン・ドニ大聖堂のフランス王家の墓所に葬られたデュ・ゲクランカスティーリャでの使命を果たしたベルトラン・デュ・ゲクランはフランスに帰国し、再び百年戦争の宿敵イギリスとの戦いで活躍を始めた。そんな彼をフランス王シャルル5世は王の軍全体を指揮する軍司令官に任じている。そんなこんなで百年戦争におけるフランスの英雄となったベルトラン・デュ・ゲクランなんだけど、実は何度も戦いで捕虜になっている。それが当時のヨーロッパでの戦争の仕方だったんだろうね。そんな捕われの彼の為にフランス王シャルル5世は身代金を払ったんだそうな。よっぽどデュ・ゲクランを高く評価していたんだね。 そんなフランス王に対して、必ずしも臣従せず、むしろ自立を目指す動きをしていたのが、ブルターニュだった。シャルル5世はデュ・ゲクランに対して反抗するブルターニュを攻略させたわけだ。でも、ブルターニュは彼の故郷だったんだ。デュ・ゲクランはフランスでは英雄なんだけど、ブルターニュでは裏切り者とされているらしいよ。
ベルトラン・デュ・ゲクランが亡くなったのは西暦1380年のこと。フランス王シャルル5世は、彼をサン・ドニ大聖堂に葬るようにと命じた。パリ郊外にあるサン・ドニ大聖堂には、フランス王家の墓所がある。そんな場所に墓を作らせたシャルル5世のデュ・ゲクランに対する気持ちの深さがうかがえるね。(上の画像はそのサン・ドニ大聖堂のバラ窓のステンド・グラス。)
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