古代ギリシャのアテネの政治家ペリクレス紀元前480年のサラミスの海戦や翌年のプラテーアの戦いで、強大なペルシャは古代ギリシャに敗北した。その結果、古代ギリシャの諸ポリスの盟主となったアテネは、その全盛時代を迎えた。
そんなアテネの政権を紀元前462年に掌握し、紀元前429年に亡くなるまでアテネを統治した政治家がペリクレスだった。上の画像はイギリスの首都ロンドンの大英博物館の古代ギリシャの展示の中にあるペリクレスの像。ヘルメットはアテネの将軍であることを示すらしい。
ついでながら、同様のペリクレスの像はイタリアの首都ローマのヴァティカン美術館・博物館のピオ・クレメンティーノ美術館の中のミューズの間でも見ることが出来るね。
アテネの政権を握ったペリクレス紀元前462年、対立する貴族派のキモンの不在中に民主派のペリクレスとエフィアルテスはアテネの政権を掌握した。その翌年には貴族派のキモンは陶片追放によってアテネを追われ、更に民主派のエフィアルテスが暗殺され、残るペリクレスは単独でアテネを統治することになった。アテネの政権を握ったペリクレスは、庶民の喜ぶ政策を遂行したらしい。例えば、貧しい人々が劇場に入る為の入場料をアテネ政府の負担としている。(下の画像は、アテネのアクロポリスの崖の上から見下ろしたディオニソス劇場跡。そのアクロポリスにはペリクレスが建てたパルテノン神殿などがある。)
他にもペリクレスはアテネの政治を大衆に開かれたものとしている。その背景には、アテネの軍事力の中心となる艦隊の漕ぎ手として貧しい人々の参加を必要としていたということがあるらしい。
ペリクレスの対外政策紀元前5世紀初頭に古代ギリシャに敗れたとはいえ、強大なペルシャが滅亡したわけではなく、引き続きギリシャにとって大きな脅威となっていたのがペルシャだった。そんなペルシャに対して積極的な対抗策を採ったのがペリクレスだった。例えば当時ペルシャの支配下にあったエジプトで反乱を起こさせている。失敗に終わったけれども ・・・ 。
更には、陶片追放の期間を終え、アテネに戻ってきた貴族派のキモンを指揮官として、軍をキプロスに派遣し、ペルシャ軍を打ち破ってもいる。指揮官のキモンはそこで病没しちゃったけど。(上の画像はキプロスにあるパフォスの海辺の風景。)
ペロポネンソス戦争とペリクレスの死、アテネの衰退他方で、アテネを盟主としてきた古代ギリシャの諸ポリスの中には、アテネに対する反発が強まっていた。特にアテネのアクロポリスの上のパルテノン神殿や黄金のアテナ女神像の建設の為に、デロス同盟の資金を流用したことはギリシャ諸都市の離反を加速させた。そもそもデロス同盟の資金は、ペルシャに対抗する艦隊を作るために諸ポリスが拠出し、アテネが預かっていたものだった。エウボイア、メガラ、ビザンティウム(後に東ローマ帝国のコンスタンティノープルとなり、オスマン・トルコのイスタンブールとなった街)などでアテネに対する反乱が続き、やがて最大の敵となるスパルタが立ち上がる。 紀元前431年、伝統ある陸軍国スパルタが自慢の軍をコリントに移動させた。そこからアテネのあるアッティカ地方に攻め込み、ペロポネソス戦争が始まった。(下の画像はコリントに残る古代の神殿跡。)
しかし、アテネを統治するペリクレスは人々をアテネの城壁の中に避難させ、特に艦隊を出動させて海上での軍事行動は行うものの、スパルタが得意とする陸上での戦いには応じなかった。
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