東西冷戦とドイツ分断の象徴となったベルリンの壁ドイツの首都ベルリンの観光の目玉といえば、その筆頭となるのが下の画像のようなベルリンの壁だろうか。
第二次世界大戦末の西暦1945年にドイツが降伏してから16年後の西暦1961年8月13日、東ドイツが西ベルリンの周囲を鉄条網で取り囲んだ。東西ベルリンの間の往来を遮断する為だった。その後、鉄条網に代えてコンクリートで築いたのがこのベルリンの壁だった。
東ドイツの経済的困難敗戦後のドイツそして首都ベルリンは、イギリス・フランス・アメリカの西側諸国とソ連とによって分割されて占領されていた。そして西暦1949年、西ドイツと東ドイツが成立し、東西冷戦下でドイツの分断が固定化されたわけだ。首都ベルリンも東西に分断され、西ドイツはボンを首都としていた。成立後の西ドイツはアメリカを中心とする西側諸国によるマーシャル・プランなどにより経済的に目覚しい復興を遂げ始めた。対する東ドイツは、戦後のソ連による生産設備の接収などもあり、経済的に著しい経済的困難に面していた。
例えばソ連は名高いマイセン磁器の生産設備を持ち帰り、マイセンにおいて磁器生産が再開された後もそれをソ連との合弁企業とし、更にはその製品の多くをソ連に向けさせていた。(上の画像は歴史あるマイセン磁器の生産の様子。)
ベルリンの壁の建設経済的な困難に直面していた東ドイツの人々の生活水準は、菱ドイツの人々の生活水準の3分の1をも下回っていた。しかも、ソ連に従う共産主義政権による自由の抑圧。豊かさと自由を求める東ドイツの人々は、西ベルリンを経て西ドイツへと向かうわけだ。それがまた東ドイツの経済的な困難を倍加することとなった。かくして東ドイツ政府は人々が西へと向かうことを阻止する為に、西暦1961年に西ベルリンの周囲に鉄条網を張り、更にはベルリンの壁を築いたというわけだ。
上の画像はブランデンブルク門なんだけど、ベルリンの壁はこの門の前にも築かれていた。西暦1791年に完成したブランデンブルク門は、プロシア王家・ドイツ皇帝家となるホーエンツォレルン家の古都ブランデンブルクと、首都ベルリンにあるシャルロッテンブルク宮殿を結ぶ道にあった。その意味でベルリンの正門とも言われていた。(ついでながら、西暦1806年にベルリンに入城したナポレオンも、この門の前でパレードを行っている。)
ベルリンの壁の崩壊壁が建設されて24年後の西暦1985年、ソ連においてゴルバチョフ氏が書記長となった。その翌年にはアイスランドにおいてレーガン・ゴルバチョフ和平会談が行われた。ソ連ではペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が進められ、東西の冷戦にも雪解けが近づきつつあった。共産圏の盟主であるソ連での変化は東ヨーロッパ諸国にも影響を与えた。ポーランドでは自由な選挙が行われて共産党が政権を失った。ハンガリーでは改革派の首相が政権を握った。西暦1989年5月、ハンガリーはオーストリアとの国境から鉄条網を撤去した。ハンガリーは同年9月には東ドイツの人々がチェコ・ハンガリー・オーストリアを経て西ドイツに入ることを容認した。 他方、東ドイツ政府は反動的であり続けた。東ドイツの人々の不満が高まり、ライプツィヒやドレスデンなどで混乱が広まり、東ベルリンでは100万人以上の人々がデモに参加していた。 そして西暦1989年11月9日、東ドイツ政府が自国民に対する出国の制限をいくぶん緩和することを決定した。しかし新任の共産党報道局長はベルリンにおいても西側への出国が認められると記者会見において発言してしまった。その記者会見はテレビで生中継されていた。 やがて東西ベルリンを隔てる検問所に東ベルリンの人々が集まり始めた。その人数は数時間のうちに数万人に達していた。検問所の扉を開けと彼らは叫び始めた。深夜には全ての検問所の扉が開かれ、東ドイツの国境警備隊は撤収していた。
数時間後、手に手にハンマーを持った人々がベルリンの壁を打ち壊し始めた。正式な政府の命令によってベルリンの壁の解体が行われたのは翌年6月のことだった。今ではベルリンの壁はわずかな部分しか残っていない。上の画像の赤い線は取り壊された壁の跡なんだそうな。
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