ノルマンディー上陸作戦とド・ゴール将軍西暦1944年6月、ナチス・ドイツの占領するフランス北部において、イギリスなど連合国軍によるノルマンディー上陸作戦が始まった。その結果、真っ先に解放された街がバイユーだった。(下の画像は、イングランド征服王ウィリアム1世ゆかりのバイユー・タペストリーがあったバイユー大聖堂。)
6月14日、このバイユーの街で演説を行ったのがフランスのド・ゴール将軍だった。西暦1940年6月15日にナチス・ドイツの攻撃によってフランスの首都パリが陥落して後、ド・ゴール将軍はイギリスの首都ロンドンにフランス亡命政権を樹立し、連合国軍と連携して自由フランスのナチス・ドイツとの戦いを指導していた。
ナチス・ドイツと連合国軍との激戦が続いたカーン真っ先に解放されたバイユーとは対照的に、カーンの街ではナチス・ドイツの守備隊が激しい抵抗を続けていた。連合国軍がノルマンディー上陸作戦を始めてから1ヶ月以上も経って、ようやくカーンの街が陥落した。
その激戦の際の猛烈な爆撃・砲撃によって、イングランド征服王ウィリアム1世が築いたカーン城(上の画像)やカーンの街は激しく破壊されたんだそうな。その間、カーンの人々は同じくイングランド征服王ウィリアム1世が建てた男子修道院に避難していた。
フランスの首都パリ解放ノルマンディーを開放した連合国軍は、更に南下してフランスの首都パリを目指した。そのパリがナチス・ドイツから解放されたのが8月25日。その翌日にはド・ゴール将軍がパリのエトワール凱旋門(下の画像)を通ってパレードを行っている。
このパリの凱旋門のある場所は、かつて「エトワール広場」と呼ばれていた。でも、今では「シャルル・ド・ゴール広場」と改称されている。
ちなみに、フランス北部のノルマンディー上陸作戦が始まって2ヵ月後、連合国軍はフランス南部プロヴァンス地方への上陸作戦を始めた。マルセイユが解放されたのは、パリ解放と同じ8月25日だった。
ついでながら、西暦1943年9月には連合国軍のイタリア上陸作戦が行われ、サレルノやパエストゥムに部隊が上陸し、やがてナポリが攻略されている。その連合国軍部隊がイタリアの首都ローマを攻略したのは翌年の6月(パリ解放の2ヶ月前)のことだった。
パリのノートルダム大聖堂で喜びのミサド・ゴール将軍のパレードが向かったのは、シテ島のノートルダム大聖堂だった。まだパリに残っていたナチス・ドイツの兵士たちの撃つ銃弾が飛んでくる中、ド・ゴール将軍のパレードは進んだ。
やがて到着したシテ島のノートルダム大聖堂では、勝利を喜ぶミサが行われた。モンマルトルの丘のサクレ・クール寺院では勝利を祝う鐘が鳴り響いていた。
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