フランス革命と修道院財産の没収西暦1789年に起こったフランス革命において、人権宣言が採択された。他方でフランスの財政破綻の解決の為に、教会財産が没収された。フランスの首都パリにあるノートルダム大聖堂やフランス王家の墓所のあるサン・ドニ大聖堂などもその対象とされていた。そして2年後の西暦1791年には、教会に加えて修道院の財産も募集されることとなった。もちろん、カトリックの総本山であるイタリアのローマの教皇庁は教会・修道院の財産の没収には反対した。でも、フランス革命の熱狂には勝てなかったんだ。
上の画像はフランス北部にある世界遺産モン・サン・ミシェルなんだけど、その修道院の財産もフランス革命後に没収されている。
フランス革命とモン・サン・ミシェルフランス北部にあるモン・サン・ミシェルの修道院は、フランス王家とも深い関係があった。例えば、フランス北部ノルマンディー地方をイングランド軍から取り戻したフランス王フィリップ2世尊厳王(オーギュスト)などもモン・サン・ミシェルの修道院に財政的な支援を行ったらしい。
そんなフランス王家からの支援を以て、モン・サン・ミシェルの修道院は上の画像にあるような立派な建物を築いたりしたわけだ。でも、このモン・サン・ミシェルの修道院の修道院長には大貴族が就任するようになり、しかも修道院では過ごすことなく、収益だけを得るようになったらしい。
セナンクの修道院のラヴェンダー畑もちろん、フランス革命後に財産を没収された修道院は各地にある。その一つがフランス南部プロヴァンス地方にあるセナンクの修道院だね。下の画像にあるようにラヴェンダーの花が見事な修道院なんだ。
セナンクの修道院は西暦1148年に設立されたシトー派の修道院だった。そんな歴史ある修道院が、フランス革命の嵐の中で消えてしまったわけだ。
ブルゴーニュ・ワインを生み出すブドウ畑そんなフランス革命の嵐は、フランスを代表するワインを生み出すブルゴーニュ地方のブドウ畑でも吹き荒れたんだ。中世ブルゴーニュ公国の時代から、貴族たちが多くのブドウ畑を寄進したこともあって、かなりのブドウ畑が教会や修道院に所有されていた。そんなブドウ畑が没収され、国有化され、小分けされて売却されたわけだ。
そんなわけで今でもブルゴーニュ・ワインを生み出すブドウ畑は、多くの人々によって分割所有されているんだそうな。(上の画像は、ブルゴーニュでも別格グラン・クリュのワインを生み出すシャンベルタン・クロ・ド・ベーズのブドウ畑。古都ディジョンから少し南に下ったワイン村ジュヴレ・シャンベルタンにある。)
ローマ教皇領だったアヴィニョンの併合西暦1309年に教皇のアヴィニョン捕囚が起こり、教皇庁がアヴィニョンに移された。その後、西暦1348年には教皇庁がプロヴァンス女伯からアヴィニョンを買い取り、以後はアヴィニョンは教皇領の一部となっていた。ところが、フランス革命後、西暦1791年にはそのアヴィニョンがフランスに併合されている。そのアヴィニョンには教皇宮殿も残っていたんだけど、その建物は兵舎として使われたんだそうな。
イギリスの修道院の場合ところで話は寄り道をしてイギリスの修道院のこと。あの悪名高いテューダー家のイングランド王ヘンリー8世は王妃と離婚してアン・ブーリンと再婚しようとしたわけなんだけど、ローマ・カトリックと訣別して、修道院を解散させちゃったんだ。解散させられた修道院は、ヨーク近郊の世界遺産ファウンテンズ・アビー、アーサー王伝説ゆかりのグラストンベリー修道院、チェスター大聖堂となった聖ワーバラ修道院、カンタベリーにある聖アウグスティヌスの修道院 ・・・ などなど多数にのぼる。 そして解散させた修道院の財産は、イングランド王家のものとされたわけだ。おかげでイングランド王家の財政はしばし余裕があったみたい。ところが、そんな財産をちょこちょこと切り売りしているうちに、王室財政の余裕も無くなってしまった。その挙句に清教徒革命が起きてチャールズ1世が処刑されたんだけどね。 いずれにせよ、中世には教会や修道院は財産を積み上げていたから、事あれば狙われてしまうということは、宿敵の関係のフランスもイングランドも共通しているかな。
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