モンゴルの西進とハンガリー西暦1223年、黒海北岸でクマン族とロシアの連合軍がモンゴル軍に敗れた。その後、モンゴル軍の圧迫を逃れたクマン族の人々がハンガリーの東部(現在はルーマニア領のトランシルヴァニア)に逃げ込んできた。ハンガリー王ベーラ4世(西暦1235年に即位)は、モンゴル軍に対する防壁として多くのクマン族の人々をハンガリー東部に定着させたんだ。西暦1241年、バトゥとスブタイに指揮されたモンゴル軍が、ハンガリー東部に侵入した。他方、モンゴル軍の別働隊はポーランドに侵入し、リーグニッツの戦いにおいてドイツ・ポーランド連合軍を撃破した後、転進してハンガリーに侵入した。(上の画像は、ハンガリーの中部・東部を流れるドナウ川の風景。) ハンガリー王ベーラ4世とモンゴル軍西暦1241年4月、モヒの戦いにおいて、ハンガリー王ベーラ4世がモンゴル軍に敗れた。モンゴル軍はダルマティアの海岸地帯までベーラ4世を追いかけたが、王を捕らえることは出来なかった。西暦1242年、モンゴルのオゴタイ・ハーン死去。ハンガリー王ベーラ4世を追及していたモンゴル軍が撤退した。ハンガリーに戻ったベーラ4世は、荒れ果てたハンガリー東部にクマン人やドイツ人を移住させて復興に努めた。 西暦1247年、ハンガリー王ベーラ4世の命により、ドナウ川を見下ろすブダの丘に王宮の建設が始まった。下の画像は現在のブダペストの王宮の様子。 考えてみれば、ハンガリーに定着したフン族やマジャール人たちも、かつてはモンゴル人たちのようにアジアからヨーロッパに侵入してきた荒々しい戦士たちだったんだよね。でも、定着して数百年も経てば、かつての遊牧民だったころの面影も失ってしまうということなんだろうね。
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