エーゲ海に浮かぶロードス島がデロス同盟に参加紀元前5世紀のペルシャ戦争といえば、自由を守ろうとするギリシャ系諸都市が団結して強大なペルシャ帝国と戦ったというイメージがあるよね。ところが、現実の国際政治は古代においても冷徹なものだった。理想だけを追い求めていたわけじゃなかったんだ。そんなわけで、古代ギリシャ系諸都市の中でも、勝ち馬になりそうなペルシャ帝国の側に立って戦った都市もあったんだ。その代表格がエーゲ海に浮かぶロードス島の諸都市だった。ペルシャ帝国の巨大な圧力に屈した結果なのかもしれないけどね。(下の画像はそんなロードス島の街の一つであるリンドスのアクロポリスの風景。)
そして紀元前480年のサラミスの海戦において、ロードス島の諸都市の艦隊はペルシャ帝国の側に立って参戦した。ところがギリシャ諸都市の艦隊に撃ち破られてしまった。その結果、ペルシャ帝国の圧力から解放されたのか、あるいは風見鶏的にギリシャ優位と見たのか、ロードス島諸都市は紀元前478年にアテネを中心とするデロス同盟に参加した。
ペロポネソス戦争とロードス島諸都市古代の大帝国ペルシャとの戦いに勝利を得たギリシャ系諸都市なんだけど、紀元前431年にはペロポネソス戦争が始まっている。アテネを中心とする勢力とスパルタを中心とする勢力が衝突した戦いだね。デロス同盟に参加していたロードス島諸都市はアテネの側に立って参戦すべきだったけど、実質的には中立を維持していたらしい。
ペロポネソス戦争が終結したのは紀元前404年のことだった。でも、その終戦前の紀元前408年にロードス島諸都市は新しい街ロードスを建設している。上の画像はその新しい街のマンドラキ港の様子なんだ。
太陽神ヘリオスの巨像話が中世・近世に飛んでしまった。再び古代エーゲ海に戻ろう。ペロポネソス戦争によってギリシャ諸都市の力は弱まり、周辺の諸勢力によって脅かされることとなり、やがてロードス島もペルシャの支配下に落ちてしまった。でも、紀元前333年にイッススの戦いにおいてペルシャを撃ち破ったアレクサンダー大王が、その翌年にはこの島を支配下に入れているんだ。しかし、大王が亡くなり、彼の王国は将軍たちによって分割された。ロードス島は大王の将軍の一人が築いたプトレマイオス朝エジプトと関係を深め、独立を保つと同時にエジプトとの交易によって繁栄した。
その頃のロードスが築いたのが太陽神ヘリオスの巨像だった。上の画像はロードスの街のマンドラキ港の入口なんだけど、ヘリオスの巨像はこの港の入口をまたぐように立っていたそうな。古代の世界七不思議の一つとされる太陽神ヘリオスの巨像は紀元前282年に完成している。残念ながら紀元前226年に島を襲った地震によって倒壊しちゃったんだけどね。
エーゲ海において交易で栄えたロードス島の文化エジプトとの交易で栄えたロードス島は、古代エーゲ海の商業の中心となり、学問や芸術においても高いレベルを誇っていたらしい。例えば、パリのルーブル美術館にあるサモトラケのニケや、ローマのヴァティカン美術館・博物館にあるラオコーンもこの島で制作されたと考えられている。そしてロードスの考古学博物館で見ることができるのが、下の画像にあるロードスのアフロディテ(ヴィーナス)なんだ。
アレクサンダー大王の王国の解体後、いく度かの危機を乗り切って独立を保っていたロードス島なんだけど、紀元前2世紀半ばにはローマの同盟国となった。しかし、やがてはローマ帝国の領土となり、その分裂後には東ローマ帝国・ビザンティン帝国の支配下にあった。14世紀初頭には聖ヨハネ騎士団によって制圧され、16世紀前半にはオスマン・トルコに奪われている。西暦1912年にはイタリアによる占領を経て、西暦1947年にギリシャ領となっている。
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