長い歴史を持つロードス島エーゲ海に浮かぶロードス島は、長い長い歴史を持つ島なんだそうな。その歴史を通じて、様々な人々が島を訪れ、様々な民族が島を支配している。そんな島がギリシャ領となったのは西暦1948年のことだった。この島に人が住みついたのは新石器時代のことらしい。紀元前16世紀には同じくエーゲ海に浮かぶクレタ島のクノッソス宮殿を中心に栄えたミノア文明の影響を受けた。その後はアカイア人(ミノア文明を衰退させたとも言われている人々)がやって来て、更にはドーリア人も住みついている。
そんなドーリア人がロードス島に築いた街の一つが、南部にあるくエーゲ海に浮かぶリンドス。紀元前10世紀頃のこととされている。ちなみに、上の画像はリンドスの街のアクロポリスにある古代神殿の跡なんだ。
ロードス島に押し寄せた古代のエーゲ海の高波古来よりエーゲ海には様々な民族の波が押し寄せている。例えば紀元前5世紀のペルシャ戦争。海軍力に優れていたロードス島の諸都市は、同じギリシャ系の諸都市の側ではなく、ペルシャ側に立って戦った。その結果として紀元前478年のサラミスの海戦において敗れている。それを機にロードス島諸都市はアテネを盟主とするデロス同盟に参加したんだ。ところが、紀元前4世紀の半ばには島はペルシャに屈している。しかし、やがてはアレクサンダー大王の統治下に入っている。その大王の死後には、彼の部下だった将軍たちの築いた王国に狙われることとなった。しかしながら、プトレマイオス朝エジプトとの交易を軸に繁栄し、ロードスの街のマンドラキ港の入口をまたぐ太陽神ヘリオスの巨像(古代の世界七不思議の一つ)を建てるまでになっている。
その後は古代ローマの同盟国となったものの、やがてはローマ帝国の支配下に入り、その分裂後にはロードス島は東ローマ帝国・ビザンティン帝国の領土となっている。上の画像はロードスの街の考古学博物館で見たビザンティン帝国時代のモザイクなんだ。
ロードス島と聖ヨハネ騎士団長くビザンティン帝国の支配下にあったロードス島なんだけど、7世紀にはイスラム教徒によって占領されたこともあった。11世紀にはヴェネツィアの統治下に入ったこともあり、更にはジェノヴァに支配されたこともあった。13世紀末に聖地における拠点を失った聖ヨハネ騎士団(あるいはホスピタル騎士団)は、新しい本拠地を求めていた。そんな彼らが狙ったのが、ビザンティン帝国領に戻っていたロードス島だった。騎士団は島に兵士を上陸させ、西暦1308年には島を制圧し、ここを新たな本拠地としたわけだ。
キリスト教徒の十字軍から生まれた聖ヨハネ騎士団は、周囲のイスラム教勢力と戦いを続けていた。そんなわけで新たな本拠地ロードス島においても、敵対勢力の侵攻に備えて守りを強化した。上の画像はロードスの街の城壁を守る空堀の様子なんだけど、騎士団はビザンティン帝国時代の城砦や城壁・空堀を活かしてそれを増強している。
ギリシャ領となったロードス島以後のロードス島は、オスマン・トルコにとって地中海東部において交易や軍事に関する重要な拠点となった。ヴェネツィアの領土となっていたクレタ島は西暦1669年にオスマン・トルコによって奪い取られたんだけど、その出撃基地となったのもこのロードス島だった。ところが、そんなオスマン・トルコの力も次第に衰えていった。そして西暦1912年、ロードス島はイタリアによって占領されている。聖ヨハネ騎士団の騎士団長宮殿を再建したのもイタリアだった。独裁者ムッソリーニが島を訪れる際の歓迎式典の為だったらしいけどね。 やがて第二次世界大戦が勃発した。西暦1943年にイタリアが降伏した後、ロードス島を占領しようとしたのがイギリスだった。しかし、イギリス軍との戦いの結果、島を占領したのはドイツ軍だった。そのドイツ軍が西暦1945年に降伏し、この島はイギリスの統治下に入ったわけだ。
そんなこんなでロードス島は第二次世界大戦における戦いの舞台となったんだけど、聖ヨハネ騎士団が築いたセント・ポール門(上の画像)もこの戦いの戦火によってほぼ崩壊したらしい。その再建工事が完了したのは、西暦1951年のことだった。
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