ローマのスペイン広場・スペイン階段へと続くコンドッティ通り下の画像はイタリアの首都ローマのコンドッティ通りの様子なんだ。フェラガモ・グッチ・プラダなどのブランドのお店が並ぶこの道を、まっすぐに数百メートル歩けば、映画「ローマの休日」で名高いスペイン階段・スペイン広場に到着する。
とはいっても、このページの主役は「ローマの休日」でもなければ、スペイン階段・スペイン広場でもない。上の画像の左半分に見えている建物が主役かな。その建物の2階の角に見えている石板の表示にご注目。
ローマにある聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の本部ご注目 ・・・ と言われても、小さ過ぎて見えない。というわけで、その石板の表示を大きく撮影したのが下の画像だ。
上の画像の中で文字板の上に見えているのは八角十字。聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)のマークだよね。また文字板の下部に見えている MDCXXXI というのは、西暦1631年を示しているんだそうな。そして文字板の文章はラテン語。もちろん、私はラテン語はわからないけどね。
ナポレオンに屈した聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)かつてはエーゲ海に浮かぶロードス島に本拠を置いていた聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)は、ロードス島をスレイマン大帝のオスマン・トルコによって奪われた後はマルタ島に本拠を置いたんだ。西暦1565年にはそのマルタ島にもオスマン・トルコ軍は侵攻してきたけれども、騎士団は防衛に成功している。(下の画像はマルタ島の聖エルモ城砦で見た騎士団ゆかりのイン・ガーディアというイベントの様子。)
そして西暦1798年、ナポレオン率いるフランスのエジプト遠征軍がマルタ島を占領し、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)は本拠地を失ったわけだ。実は後にトラファルガーの海戦で英雄となるイギリス海軍のネルソン提督が救援の為にマルタ島に向かっていた。しかも、もし聖ヨハネ騎士団が抵抗してエジプト遠征に支障を生じるならばマルタ島攻略を放棄するようにとフランス政府はナポレオンに指示を与えていたらしい。
流浪の聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)その後の聖ヨハネ騎士団は、騎士団長の地位をロシア皇帝に委ねるなどにより、なんとかマルタ島回復の道を探ろうとしていたんだ。しかし、西暦1800年にマルタ島を占領したイギリスに対して、西暦1814年のパリ条約は島の領有権を認めてしまった。聖ヨハネ騎士団による島の回復の可能性はほとんど無くなってしまった。西暦1818年には、ハプスブルク家のオーストリアが聖ヨハネ騎士団に救いの手を伸ばしてきた ・・・ かに見えた。イタリア近くにあるエルバ島を、聖ヨハネ騎士団の新しい本拠地に提供しようというんだ。 でも、老練の政治家メッテルニヒが、そうそう簡単に美味い話を持ってくるはずもない。エルバ島の提供には条件が付いていた。ハプスブルク家の出身者を聖ヨハネ騎士団の騎士団長にしろというんだ。つまり、聖ヨハネ騎士団をハプスブルク家の支配下に置こうというわけだ。もちろん、提案は拒絶された。 西暦1823年には、オスマン・トルコに対して独立戦争を戦っていたギリシャと聖ヨハネ騎士団との間で条約が締結された。聖ヨハネ騎士団がギリシャに対して軍事的な支援を行う代わりに、独立後のギリシャはロードス島を聖ヨハネ騎士団に引き渡すというもの。ところが、当時の騎士団長アントニオ・ブスカが消極的だった上に、フランス政府の妨害などもあり、このギリシャへの支援は実行されなかったんだ。 こうして、マルタ島を追い出されてから30年以上が無為のうちにすぎていった。その間に各国にあった聖ヨハネ騎士団の組織は崩壊し、財産も失われていった。そんな組織をどうやって維持していくか。
ローマに移された聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の本部西暦1834年、ローマ教皇グレゴリウス16世によって、新しい騎士団長にカルロ・カンディダが任命された。同時に、聖ヨハネ騎士団の本部をローマにある聖ヨハネ騎士団の古い大使館へ移すようにと命じたんだ。
上の画像は、かつてのローマ大使館だった建物の中にある現在の聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の本部の様子。鉄の門扉が閉まっていて中に入れず、扉の隙間から撮影した画像なんだけどね。
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