エドワード黒太子の忘れ形見イングランド王リチャード2世フランスとイギリスとの間の百年戦争で活躍しながらも、イングランド王となることなく西暦1376年に亡くなったエドワード黒太子。その父のイングランド王エドワード3世は、孫にしてエドワード黒太子の忘れ形見のリチャードを、直ちにイギリス皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)とした。
同時に、父のエドワード黒太子が初代となっていたコーンウォール公の地位も、リチャードに引き継がれた。(上の画像は、コーンウォールの海に浮かぶ伝説のアーサー王ゆかりのセント・マイケルズ・マウント。)
イングランド王リチャード2世の治世10歳で王となれば、まずは苦労すると想像できるよね。叔父たちに助けられてイングランドを統治するリチャード2世もそうだった。フランスとイギリスが長く戦った百年戦争の為に財政は逼迫した。人頭税を課して財政赤字を埋めようとしたものの、西暦1381年にはワット・タイラーの乱も起こった。リチャード2世が頼りにした側近たちに対しては、ランカスター公などの叔父が反発していた。そのランカスター公などは自ら王となる野心さえも持っていたらしい。後のイングランド征服王ウィリアム1世は 8歳でノルマンディー公となったらしいけど、イングランド王リチャード2世はそんな器ではなかったみたいだね。
西暦1398年には、ランカスター公の息子でリチャード2世の従弟にあたるヘンリー・ボリングブロークを国外追放にしている。そして、この措置が後にリチャード2世の命取りになったんだ。
リチャード2世の遠征と反乱西暦1399年、イングランド王リチャード2世の叔父でランカスター公が亡くなった。しかし、その息子のヘンリー・ボリングブロークは前年に国外に追放されていた。リチャード2世は亡くなったランカスター公の領地を没収した。その年、イングランド王リチャード2世はアイルランドに遠征に出た。追放されていたランカスター公の息子のヘンリー・ボリングブロークは、リチャード2世の留守をついてイギリスに上陸して反乱の兵を挙げた。 リチャード2世は遠征先のアイルランドからウェールズ北部に戻り、反乱を鎮圧するための兵を集めようとしたらしい。その為にカーナフォン城(下の画像)などに滞在したんだそうな。
ところがウェールズでさほどの兵は集まらなかったらしい。というよりも、イングランド王リチャード2世はここで逼塞していた。カーナフォン城に滞在しているときにも、満足な夜具が無く、藁の上に眠ったこともあるらしい。
ロンドン塔に幽閉されたイングランド王リチャード2世囚われたイングランド王リチャード2世は、ロンドンに連行され、悪名高いロンドン塔(下の画像)に幽閉されてしまった。
間もなくイングランド王リチャード2世は廃位され、ランカスター公の息子のヘンリー・ボリングブロークがイングランド王ヘンリー4世として即位したんだそうな。
シェイクスピアの「リチャード2世」それから200年近く経ち、リチャード2世が復活した。ストラトフォード・アポン・エイボンからロンドンに出てきて数年後のシェイクスピアが著した「リチャード2世」の中で。但し、このシェイクスピアの作品の中では、リチャード2世は餓死したのではなく、騎士によって暗殺されたことになっているんだそうな。リチャード2世としては、シェイクスピアのペンに感謝するかもしれないね。
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