イッソスの戦いに勝利を得たアレクサンダー大王紀元前333年、アレクサンダー大王はイッソスの戦いにおいてペルシャの大軍に対して勝利を得た。それからのアレクサンダー大王は破竹の勢いで勝ち続け、やがてインドにまで達するわけだ。
上の画像はイッソスの戦いにおけるアレクサンダー大王を描いたモザイク画(部分)なんだけど、イタリア南部ナポリにある国立考古学博物館で見ることが出来るポンペイ出土のモザイク画の一つなんだ。
アレクサンダー大王とアリストテレスアレクサンダー大王(正しくはアレクサンドロス3世)は、紀元前356年にマケドニアの首都ペラで生まれた。父親はマケドニア王フィリッポス2世だった。その父親は、息子の為に古代ギリシャの哲学者アリストテレスを家庭教師として招いたらしい。そのアリストテレスとアレクサンダー大王との交友は、大王が亡くなるまで続いたんだそうな。
そんなアリストテレスは、上の画像の絵においては上段の中央からやや左に立つ空色の服を着た人物(左手に本を持ち、右手の掌を下に向けている)として描かれている。この画像の絵は、ローマのヴァティカン美術館・博物館の中の署名の間で見ることが出来る。あのラファエロの作品「アテネの学堂」の一部なんだ。
マケドニア王位継承からアケメネス朝ペルシャとの戦い紀元前336年に父が暗殺され、弱冠20歳のアレクサンダーがマケドニア王として即位した。マケドニア支配下にあったギリシャ諸国の抵抗を鎮め、紀元前334年にはアケメネス朝ペルシャ領の小アジアに侵入し、グラニコス川の戦いでペルシャ軍に打ち勝っている。そして紀元前333年、自ら大軍を率いて出陣してきたペルシャ王ダリウス3世をイッソスの戦いで撃ち破ったわけだ。(下の画像はナポリ国立考古学博物館にあるイッソスの戦いを描いたモザイク画全体の様子。)
この戦いでペルシャ王ダリウス3世は敗走している。大国ペルシャの支配者としては、この戦場で敗北しても、まだまだ豊富な兵と資金を持っている。再び大軍を整えて、アレクサンダー大王の軍を迎え撃てば良い。蛮勇を奮ってむざむざと敵の手に落ちる必要はないわけだ。
ちなみに、マキャベリは「君主論」において、軍を率いて進撃する君主は、兵士たちによる略奪などを寛大に許してもよいとし、その事例としてアレクサンダーの場合をあげているとか。でも、敵の王に讃えられる振る舞いをする彼が、寛大に略奪などを許すものだろうか。
エジプトのファラオとなったアレクサンダー大王ペルシャ王ダリウス3世の大軍をイッソスの戦いで撃ち破ったアレクサンダー大王は、南下してエジプトに向かった。アケメネス朝ペルシャによって征服されていたエジプトの人々は、ペルシャを打ち破ったアレクサンダー大王をむしろ歓迎したらしい。
紀元前332年にエジプトを支配下に置いたアレクサンダー大王は、ファラオの称号を得ている。(上の画像はエジプトのカイロ近くに残るギザの三大ピラミッドの風景。)ついでながら、その年に彼はペルシャの支配下に入っていたロードス島をも占領している。
アレクサンダー大王、その後紀元前331年にはティグリス川流域のアルベラの戦いにおいて、再びダリウス3世の率いるペルシャ軍を撃破している。翌年にはそのダリウス3世が家臣に殺害され、アケメネス朝ペルシャが滅亡した。紀元前327年にアレクサンダー大王はインドに到達した。しかし、兵たちの反対により、それ以上の進軍を諦めざるを得なかった。そして紀元前323年、32歳のアレクサンダー大王がバビロンで亡くなった。 アレクサンダー大王の死後、彼の配下の将軍たちが互いに戦いを繰り広げた。但し、マケドニアにおいては後継者として指名されたのはアレクサンダー大王の異母弟フィリッポス3世アリダイオスだった。もちろん、形だけの後継者だったんだけどね。 しかし、紀元前316年にはフィリッポス3世アリダイオスも、暗殺されてしまった。また、アレクサンダー大王には妃のロクサーネとの間に男の子がいたんだ。その男の子も紀元前310年には暗殺されてしまったんだ。
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