略奪を受けたローマイタリアの首都ローマといえば「永遠の都」という言葉が浮かぶよね。でも、そのローマも破壊や略奪と無鉛ではなかったんだ。古代ローマがエトルリア人の王を追放し自立して120年ほどが経った西暦387年、ケルト系ガリア人によってローマが略奪されたことがある。でも、古代ローマはそこから立ち上がり、シーザー(カエサル)や初代皇帝アウグストゥスなどの英雄を輩出し、最大の版図を誇った皇帝トラヤヌスの時代には地中海とヨーロッパを支配する大帝国を築き上げたわけだ。そうなれば永遠の都ローマが異民族の略奪を受けるなんてことはあり得ない ・・・ はずだよね。 ところが、3世紀も半ばを過ぎると、強大な大帝国の首都の防衛に不安が生じたんだ。その結果、西暦270年に即位した皇帝アウレリアヌスはローマを守る城壁(「アウレリアヌスの城壁」)を築いたわけだ。(下の画像は今もローマに残るアウレリアヌスの城壁のピンチアーナ門の様子。)
そして西暦395年、古代ローマ帝国は東西に分裂した。西ローマ帝国の支配者となったのは10歳の皇帝ホノリウスだった。彼の即位の時の西ローマ帝国の首都はミラノだった。でも、北からのゲルマン系の人々の脅威を受け、守りに適したラヴェンナに都を移したのが西暦402年のことだった。
フン族の王アッティラのイタリア侵入皇帝ホノリウスは西暦423年に子供を残さずに亡くなった。東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世の支持を得て西ローマ帝国の皇帝となったのは、ウァレンティニアヌス3世だった。といっても、その時点で皇帝は4歳であり、摂政として統治を行ったのは母のガッラ・プラキディア(ローマから西ゴート族に連れ去られた皇女)だった。ちなみに、先帝ホノリウスはガッラ・プラキディアの異母兄であり、ウァレンティニアヌス3世はホノリウスの甥にあたる。でも、やがて台頭してきたのは、軍人のアエティウスだった。やがてアエティウスがガッラ・プラキディアに代わって実権を握り、幼い皇帝ウァレンティニアヌス3世を補佐していくことになる。そして西暦451年、フン族の王アッティラがガリア(今のフランス)に侵入した。アッティラとの戦いに勝利を得たのがアエティウスだった。当然ながらその勝利はアエティウスの名を一段を高めたわけだ。 ところが、西暦452年にはアッティラはフン族を率いてイタリアに侵入してきた。西ローマ帝国の皇帝ウァレンティニアヌス3世はローマへ移った。首都ラヴェンナの守りを委ねられたのはアエティウスだった。ちなみに、このフン族の王アッティラのイタリア侵入の際の避難民がラグーンの島に移って生まれたのが、後に発展してヴェネツィア(下の画像)となったそうな。
ところが、南下しつつあったフン族の王アッティラは途中で反転し、アルプスの北へ去ってしまった。一説にはローマ教皇レオ1世が派遣した使節に説得され、破門を怖れて侵入を中断したとも言われる。でも、キリスト教徒でもないアッティラが破門を怖れるはずはないとの意見もあるんだけどね。
ゲルマン系諸部族に擁立された短命な皇帝たち以後、西ローマ帝国の皇帝たちは、極めて短い統治期間の間に次々と殺害されていく。しかも、その多くがヴァンダル族や西ゴート族などのゲルマン系諸部族によって、あるいは将軍たちによって都合よく擁立された。まずは西暦455年に皇帝となったペトロニウス・マクシムスは、先帝ウァレンティニアヌス3世殺害の首謀者だったとの説もある。でも、その年の内にローマを略奪したヴァンダル族によって殺害されてしまった。 次の皇帝アウィトゥスは、ガリア(今のフランス)で西ゴート族の王テオドリック2世によって擁立されたらしい。でも、ガリア方面に勢力を持っていた将軍リキメルによって翌年の西暦456年に廃位されてしまった。(下の画像は今のフランスのブルゴーニュ地方にあるシャンベルタン村のブドウ畑の風景なんだけど、古代ローマ帝国の多くの人々が移り住み、ワイン用のブドウを栽培していたらしい。)
廃位した皇帝アウィトゥスをすぐに殺害した将軍リキメルは、続いて西暦457年に皇帝マヨリアヌスを即位させた。その皇帝マヨリアヌスが自力で帝国を統治しようとしたことから、将軍リキメルは西暦461年に皇帝マヨリアヌスを暗殺している。
西ローマ帝国の最後の皇帝ロムルス・アウグストゥスイタリアだけを支配していた西ローマ帝国の財政は厳しい。身の丈に合った財政支出とする為に兵力を削減せざるを得ない。ところが、解雇された兵たちを率いて反乱を起こしたのが将軍オレステスだった。オレステスは西暦475年に自分の息子をロムルス・アウグストゥスとして皇帝としたんだ。その翌年の西暦476年、兵士たちが反乱を起こした。その指導者がゲルマン系のオドアケルだった。オドアケル率いる反乱軍はローマを略奪し、オレステスを殺害した。更にオドアケルたちはラヴェンナに進み、皇帝ロムルス・アウグストゥスを廃位した。ここに西ローマ帝国は滅亡したとされる。
上の画像はローマのフォロ・ロマーノにあるパラティーノの丘の風景なんだけど、古代ローマを築いたとされるロムルスの宮殿もこの丘にあったらしい。しかし、古代ローマを築いたとされる人物と、西ローマ帝国の最後の皇帝とされる人物が同じ名前を持っているというのが、歴史の皮肉だよね。
古代ローマ帝国衰亡の背景 ・・・かくして西ローマ帝国は滅亡したんだけど、古代ローマ帝国が弱体化し、かかる事態に至った背景については諸説あるみたい。その中でもゲルマン民族大移動など異民族の動向は有力な説だよね。他方で興味深いのは、マラリアの感染による帝国の弱体化を主張する説かな。西暦2016年12月のニュースによれば、イタリア各地に残る古代ローマ帝国時代の墓地で発見された遺体のDNA分析からは、熱帯熱原虫によるマラリア感染の証拠が発見されたらしい。そんなわけでマラリアが帝国滅亡の背景にあったとの説が浮上しているんだそうな。
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