傭兵隊長ジョン・ホークウッドの誕生百年戦争といえば、14世紀から15世紀にかけてフランスとイギリスとの間に続いた戦いだよね。といっても、両国がずっと戦い続けていたわけじゃない。戦いと和平が繰り返されていたらしいね。西暦1360年に両国間で結ばれたブレティニー条約も、何度目かの休戦をもたらすものとなったんだそうな。(やがて戦火は再び燃え上がるんだけどね。)戦乱に巻き込まれた人々が和平を歓迎するのは当然だよね。でも、和平に困ってしまう人々もいる。両国の軍に加わっている兵士たちだね。休戦となれば、彼らは職を失ってしまったんだ。 西暦1360年のブレティニー条約によって、イギリス軍に解雇された失業者の一人がジョン・ホークウッドだった。西暦1320年にイギリスの田舎の職人の息子として生まれた彼は、ロンドンでの奉公人として暮らしに飽き足らず、父親が亡くなるとその遺産を売り払って武具を買い、イギリス軍の兵士となってフランスで戦っていたんだそうな。 軍から解雇されたジョン・ホークウッドは、フランス東部ブルゴーニュ地方で傭兵集団に加わった。傭兵となった彼は、やがてフランス南部にあるアヴィニョンで教皇庁の軍と戦ったらしい。(下の画像はアヴィニョンに残る教皇宮殿。西暦1309年の教皇のアヴィニョン捕囚とそれに続く教会大分裂によって、当時はアヴィニョンに教皇がいた。)
やがてジョン・ホークウッドは傭兵集団の中で頭角を現し、隊長のドイツ人アルブレヒト・ステルツを追い出し、自ら傭兵隊長になったんだそうな。イギリス軍の兵士としての彼は百年戦争で活躍し、黒太子エドワードによって騎士に叙任されたなんて話(真偽は不明だけど・・・)もあるくらいだから、有能な戦士だったんだろうね。
イタリアで戦った傭兵隊長ジョン・ホークウッド西暦1362年、イタリアの名高い傭兵隊長モンフェラート候に声をかけられた傭兵隊長ジョン・ホークウッドは、傭兵たちを率いてアルプスを越え、ミラノ大公の軍と戦った。(下の画像はミラノにあるスフォルツェスコ城。ミラノ大公の居城だった。)
その後の彼は、部下たちと共にイタリアにとどまり、傭兵隊長として各地で戦い続けた。西暦1364年にはピサに雇われてフィレンツェ軍と戦い、西暦1369年にはペルージャに雇われて、教皇庁の軍と戦い、西暦1370年にはミラノに雇われてピサとフィレンツェの軍と戦い、更にはモンフェラート候の軍と戦い、西暦1375年には教皇庁に雇われてフィレンツェ軍と戦っている。
フィレンツェに雇われた傭兵隊長ジョン・ホークウッド西暦1377年には傭兵隊長ジョン・ホークウッドはフィレンツェに雇われている。とはいえ、彼がずっとフィレンツェの為に戦い続けたわけじゃなかった。イングランド王に依頼されてローマの教皇庁に対する大使となったこともあるし、その後もパドゥアやヴェローナに雇われたこともあった。そして西暦1390年代になって、彼はフィレンツェの軍司令官になっている。フィレンツェを含むトスカナ地方に侵入しようとするミラノ大公の軍と戦う役目を引き受けたらしい。そんな彼の活躍もあり、ミラノ大公もトスカナ征服を諦め、フィレンツェと和議を結んでいる。 ミラノ大公の侵略からトスカナ地方を守りぬいたことにより、フィレンツェの人々はジョン・ホークウッドを救世主として賞賛し、彼にフィレンツェの市民権と年金を以て報いたそうな。
しかし、イタリア最強の傭兵隊長として冨と名声を得たジョン・ホークウッドも既に70歳を越えていた。そして西暦1394年、彼はフィレンツェで亡くなっている。人々はフィレンツェにあるドゥオモ(花の聖母マリア大聖堂)で国葬を以て彼の死を悼んだそうな。(上の画像はその大聖堂の祭壇。)
フィレンツェの大聖堂に見るジョン・ホークウッドのフレスコ画それから40年余りが経った西暦1436年、フィレンツェの人々がパオロ・ウッチェロに依頼したフレスコ画が完成した。描かれたのは傭兵隊長ジョン・ホークウッドの騎乗の姿だった。下の画像の右側に見えるのが、そのフレスコ画なんだ。実は銅像を立てたかったらしいけど、予算が足りなくてフレスコ画にしたらしいけどね。
ついでながら、上の画像の左側に見えているのも傭兵隊長を描いたフレスコ画だったりする。アンドレア・デル・カスターニョによるもので、描かれているのはニッコロ・ダ・トレンティーノなる傭兵隊長。彼もまたフィレンツェの軍司令官として雇われ、西暦1434年にミラノ大公との戦いの際に捕えられ、やがて亡くなったんだそうな。
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